榎本武揚




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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榎本武揚

















◎榎本子爵薨去・・・・・発病以来久しく向島の邸に静養中なりし子爵榎本武揚氏は薬石効なく終に昨二十六日午後二時三十分を以って薨去せられたり。右に付き畏きあたりより左の御沙汰ありたり。
正二位勲一等海軍中将子爵榎本武揚賜旭日桐花大綬章
▲臨終の模様・・・・・昨午前十時頃主治医研精堂病院長栗本秀次郎氏来診の際は意識やや明瞭にして心臓の鼓動三回を聴取したり。これ発病以来始めての徴候なりしが正午頃俄然呼吸数倍を加へて不整となり脈拍も百二十四に達し且つ胸部に疼痛を感ずるものの如く顔色も亦変じたり。されど暫時にしてやや佳良の徴候を呈し顔色も少しく立ち直りしが午後一時半に至り吃逆を起こし同時に咳嗽をなして嘔吐し苦痛の裡に牛乳及び水薬を含める液を吐きたる後昏睡に陥り呼吸脈拍追々微弱となりて同二時三十分に至り終に眠るが如く薨去せられたり。吃逆を来たしてより昏睡まで僅かに二三分間に過ぎざる急激の変化とて臨終の際は夫人も居合わさず枕辺には長男武憲、次男春之助及び甥榎本淳の三氏看護し居たるも遺言の遑なかりし程なりとぞ。
▲葬儀・・・・・子爵薨去につき近親知友その他の弔問引きも切らず門内に受付所を設け車馬市をなす有様なりき。葬儀は時間未定なるも来る三十日駒込吉祥寺において営む事に決したり。」

『東京朝日新聞』(明治41年10月27日付け)


◎榎本子爵略伝・・・・・子爵は幕府の勘定役榎本園兵衛氏の二男にして釜次郎と称し天保七年八月二十五日を以って江戸に生まる。幼時昌平?に入り英名を挙げ嘉永六年長崎に到り蘭人に就き蒸気機関学航海学を学び後海軍操練所教授に任じ又蘭国留学を命ぜられ同国に留まること六年たまたま丁墺の戦争あるや其の実況を視察し慶応二年帰朝して軍艦乗組頭取となりついで海軍奉行に累進す。幕府大政奉還のことあるや君奥羽の諸藩兵を率い軍艦に乗じて函館に脱走し五稜郭に拠り手官兵と兵火を交えて大義名分の下に遂に軍門に降り囹圄に在ること数年後聖恩の宏もに浴して青天白日の身となり明治五年開拓使四等出仕に任ぜられ七年一躍して海軍中将を拝命し特命全権公使として露京に派遣せられ樺太問題を解決して大いに技量を発揮せり。」

『東京朝日新聞』(明治41年10月27日付け)


















榎本子函館陣中よりの書簡


「◎榎本子逸話・・・・・」

『東京朝日新聞』(明治41年10月27日付け)










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