日本で初めて労働組合をつくった男




明治ファッションめぐり(明治時代と服装)









「根岸競馬場」『横浜名所図会』(東陽堂発行)


根岸競馬場(横浜市)は1866年(慶応2年)、
幕府の手によって日本で初めて建設された競馬場です。
明治時代の競馬場は、帽子から靴まで
きらびやかに洋装した紳氏、淑女が集う社交場、
いわば「野外の鹿鳴館」の役割も
果たしていたのです。














「横浜停車場の前」『横浜名所図会』(東陽堂発行)












「浅草雷門」『東京名所図会』(東陽堂発行)












「七里が浜より江ノ島を望むの図」『鎌倉江ノ島名所図会』(東陽堂発行)











当世雨具の図



『風俗画報』(東陽堂発行)












当世雨具の図



『風俗画報』(東陽堂発行)













帽子洗い



『風俗画報』(東陽堂発行)











洋服の始り

我が国の洋服は、陸海軍の洋式調練法を採用したるに起源せり。


慶応二年、渋沢栄一氏が水戸民部大輔に従いて洋行する時、洋服を着けて行かんとせしも、持ち合わせは無し。洋服屋もなく之を求むる道なかりければ、横浜の洋服古着店に行きて一着を買い、意気揚々之を着用して出発せり。船はやがて香港に達し一同あるホテルに入れるに、ボーイ等、他の人々を優遇して独り渋沢氏を冷遇す。これ渋沢氏の着服はコックの用いるイブニングコートなりければ、コックと見なされしなりとの笑話あり。当時の世態の一斑を想うべきなり。

『明治事物起原』(石井研堂 明治41年)











◎衣服制度につき仰出さる書の写し・・・・・衣服の制、寒喧身をはかり、体裁よろしきにかない、上下の分を明らかにし、内外の別を殊にする所以なり。然るに近世其の制一ならず、人其の服を異にし、上下混淆、国体何を以って立つことを得ん。故に古今の沿革を考え、時宜をはかり、公議を採り、一定の御制度立たせられたき思召につき、各々見込みの儀書取りを以って、来る二十五日限り上言あるべきよう、御沙汰候事。」

『太政官日誌33』(慶応4年6月)





◎平民にも袴、羽織の着用を・・・・・平民襠、高袴、割羽織、着用勝手たるべきこと。」

『太政官日誌54』(慶応4年8月18日)





◎服制一新の勅語・・・・・方今恐れ多くも主上日々政庁へ臨御、万機の御政務聞こしめさせられ、一日太政大臣を召せられ左の勅語せられたる由。
朕おもうに、風俗なるもの移換以って時の宜しきに随い、国体なるもの不抜以って其の勢を制す。今衣冠の制、中古唐制に模倣せしより流れて軟弱の風をなす。朕之をはなはだ嘆く。それ神州武を以って治めるや元より久し。天子みずから是れが元師となり、衆庶以って其の風を仰ぐ。神武創業、神功征韓の如き決して今日の風姿に非ず。あに一日も軟弱以って天下に示すべけんや。朕今断然その服制を更め、其の風俗を一新し、祖宗以来尚武の国体を立てんと欲す。汝近臣それ朕が意を体せよ。」


『新聞雑誌』(明治4年9月)





◎清国服装の日本婦人・・・・・今回日清事件にて横浜在留の清国人はそれぞれ帰国することなるが、多年夫婦同様に暮らし居りたる妾の本国婦人少なからず、十中の三四はいづれも子供をたくわえ居れば、人情として其の子を携え帰る者もあれど、事情離れ難き者は共々清国に渡らんと旅券の下付を神奈川県庁へ願出ずるも、同庁にてはこの際容易にこれを許可せざるゆえ、彼等は一策を考え出だし、件の妾輩に清国服を着せて其の筋の眼をかすめんとする故、其の筋の係員は充分に注意し居れば、彼等も今はどうやら断念せし模様あり。」

『万朝報』(明治27年8月8日付け)





◎新形の洋服・・・・・去月二十二日横浜入港の郵船ベルヂック号はニューヨークブルツクリン洋服店より社員の一人に送りし本年冬期新形洋服の見本をもたらし来たりたれば、その図をば翻刻して流行に先んずる人々に示すこととせり。この図により著しきは其のズボンの次第に細くなりし事なり。其の他の説明はここに省きつ。




『万朝報』(明治31年10月6日付け)






◎役夫の風采・・・・・あたかも馬喰町辺に止宿する田舎者の如く、しかも甚だ不活発にして物の役に立ちそうに思われず、其の風采を絵にして示す。
帽は編笠にて上衣は浅黄木綿、何れも白木綿に何物か入れてハス掛けに仕負居れり。又何も青ゴザを背中に仕負へる有様は実に奇観なり。




『万朝報』(明治27年9日19付け)





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