黒田清隆



明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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黒田清隆




















◎黒田伯薨去・・・・・枢密院議長正二位勲一等伯爵黒田清隆氏は久しく坐骨神経痛(俗称中風)に悩み近頃やや快き方なりしに去十三日より再び局部に疼痛起こり一昨夜八時頃俄かに急性脳膜炎に変症してついに薨去せり。昨朝は尚喪を発せず危篤の体なりしを以って、両陛下より岩佐侍医を遣わされ又葡萄酒一函交肴一台を下し賜り且つ左の御沙汰を下されたり。
枢密院議長陸軍中将正二位勲一等伯爵黒田清隆特旨を以って位一級被進(叙従一位)
黒田伯は旧薩摩藩士にして天保十一年十月十六日鹿児島に生まれ了介と称す。父は清行という。萬延元年三月家督を相続し爾来藩主に従いてしばしば上京し英国船鹿児島に襲来の時は防戦のい功を以って金若干を賞与せらる。又島津三郎にこ従して上京し在京年を経主命を以ってしばしば京都より芸長の間に往来し軍賦役見習いとなり帰国の際日向国幕府領の民蜂起し佐土原藩士某を謀殺するに会し出張処分を命ぜられ次いで軍艦及び参政を命ぜらる。明治元年正月三日命を奉じて伏見淀鳥羽各処において賊軍を追撃す。やがて奥羽征討に際し九条左大臣参謀となり次いで北越征討参謀に転じ函館追討に付き亦清水谷中将の参謀となり凱旋の後外務権大丞に任ぜられ章典禄七百石を賜う。身に代えて榎本武揚氏等の命乞いなせるは皆人の知る所なり。それより兵部大丞に転じ三年開拓次官となり樺太に出張し全権を以って処措する処あり。次いで欧州及び支那に遣わされ四年六月帰朝したり。七年陸軍中将となり参議開拓長官に兼任し八年千島に出張す。其の年末特命全権弁理大臣として朝鮮に遣わされ九年三月帰朝。使命を全うし新に条約を互換したる功を嘉賞せられ特に勅語及び金二千円を賜りぬ。是れ所謂江華島事件にして井上伯之が副使たりき。十年柳原勅使に副として鹿児島に出張し又征討参謀となり八代に向かって賊の背後を衝き熊本城聯絡も功を奏したるを以って特に勅語を蒙り鎮定の後更に勲一等旭日大綬章を賜りたり。十一年ウラジオストック及び樺太に出張す。十五年一月参議開拓長官を免じて内閣顧問となり有名なる開拓使官有物払い下げ事件も結末なると亦人の皆知る所なり。二十年農商務大臣に任じ翌年四月内閣総理大臣となる。大隈伯を以って外務大臣に薦め其の条約改正の失敗によりて其の内閣の瓦解したるはこの際にして即ち二十二年十月総理大臣をやめ枢密顧問官に移され二十五年松方内閣倒れて伊藤内閣となるに当たりて逓信大臣となり二十八年枢密院議長に転じて尚ほ内閣に列し爾後内閣更迭の過渡に当たりて四たび総理大臣臨時代理もしくは臨時総理大臣たりき。三十一年六月内閣班列を免ぜられ爾来枢密院議長のみに専任して以って今日に至れり。豪壮質朴しばしば奇行を市井に伝唱せしめしが近年、歳と共に漸く老いて多く病を養うに専らなりき。享年六十一、あたかも還暦の年に当たりて不帰の客となれるこそ悼ましけれ。」

『東京朝日新聞』(明治33年8月25日付け)






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