日本で初めて労働組合をつくった男


昔からあった「格差社会」



「わたしは街を歩いて行った。一人の乞食、痩せた年よりの男が、わたしを引き留めた。きらりと、涙ぐんだ眼、青い唇、ぼろぼろの着物、みにくい腫物、ああ、恐ろしくも、貧窮は、この哀れなものをかじった。彼はわたしの方へ、その膨らんだ赤いきたない手をさし出した。彼はうめいて、よくやる型で助けを求めた。わたしはかくしの中じゅう探しにかかった。が、財布も時計も、ハンケチすら見あたらない。何一つ身に附けていなかった。でも乞食はやっぱり立って、何がなと待っている。其の広げた手は微かにわななき震えている。愕いて、慌てて、わたしは柔らかに、その汚れた、震えている手を握った。『悪く思ってくれるな、わたしはここに何の持ち合わせもないのだ!』乞食は、その爛れた眼を上げて、わたしも見た。微笑が蒼ざめた唇に漂った。そして、彼はわたしの冷たい指を掴んだ。『恐れ入ります』と彼はつぶやいた。『こうしていただいたのさへ誠にかたじけなうございます。これもやはりお恵みでございます。』わたしもまた、この兄弟から恵みを受けたような感じがした。」

ツルゲーネフ作





『THE FAR EAST』













『THE FAR EAST』大倉喜八郎   









貧民の家庭












乞食の家庭





「◎東京乞食の総統領は多情多恨の一婦人・・・・・乞食といえば、人間社会中の尤も憐れむべき、最下等の境遇に生息し、身に穢れを着け、毒を含み、人の憐れみに生活し、罪悪を以て社会に毒を流すこと夥しく、如何にして之を救済駆除すべきかとは、いやしくも社会改良に志あるものの、ひとしく憂慮するところなり。さる醜類の統領とも仰がるものは、いかばかりの寧悪醜穢の徒なるべきかと思はるるに、東京市内乞食の崇めて大親分となすものは、あに図らんや、これ多情多恨の一婦人にてあらんとは。また彼女は、社会改良家の未だ着手せざるに先だちて、配下の乞食を善導せんがために肝胆を砕きつつありとは。今時事新報の報ずる所によりて、彼女が経歴を見るに左の如し。」

『女学雑誌』(第430号)










『THE FAR EAST』大倉喜八郎   












「大倉邸の図」(明治時代)
『新撰東京名所図会』










「大倉邸美術館内の図」(明治時代)
『新撰東京名所図会』












陸軍省と資本家との癒着を風刺

「◎大倉の私服を肥す・・・・・東北の饑饉地へ払い下げの交渉をした営口の軍用米は僅な事で大倉へ落札した。陸軍省が恨めしいと餓死の際の愚痴。」『東京パック』

『近代百年史』より









「◎米高く貧苦に迫る細民を三菱抔は何もいわさき。大倉に米は沢山ありながら、人にやるのはトント渋沢。」

『教育時論』(第454号 明治30年11月25日)






「◎東京名代の花屋敷・・・・・駒込では渋沢栄一の別荘、向島では大倉喜八郎の別荘、及び中橋筋では喜谷八郎右衛門の本宅。この三か所は四季倶に梅松桜萩桔梗等合せて八十八の花盛り。亦た之れ一種の仙境。ただ聞く深夜りんりんの声。」

『社会燈』(第1号)





「◎大倉喜八郎氏・・・・・の向島の別荘多くの阿嬌を貯えて当路の官人を抱込むも、今の経理局長、外松は頑固でこの手が利かず、番頭てこずって大倉に言上すると、大冷笑して、天下に黄力の魔力と女菩薩の済度で成仏しないやつがあるか、外松がもし頑固を言い張ると彼の地位は一年ならずして危くなると、これでは官吏も台無し。」

『神戸又新日報』(明治34年8月25日付け)








『THE FAR EAST』














「地位格差」の一光景

車上で八の字髭をはやして、そっくりかえっているのは、
おそらく官吏さまであろう。
人力車を引いているフンドシ姿の人物は、
最下層の民、車夫である。

当時、高級官僚たちは鯰のような口髭をはやしていたことから、
彼等のことを通称で「なまず」と呼んでいたという。







『小国民』
























「◎小乞食・・・・・十歳前後のコジキ、五人三人群をなし、府下市内に徘徊するもの少なからず。衣は体を全く蔽はず、いもの皮を拾ふて食とする等見るに忍びざる様なり。」

『小国民』
















明治10年



明治11年

「◎子供というものは仕方のないもので学校で弁当を食ふにも誰さんの家のお米は白くっていいの誰さんの御膳は色が黒いのポンポチ米だのお前の家のお菜はいいの私の家はいつも煮豆や鮭だから外聞が悪いといって困るゆえ東海道川崎在の学校では生徒の弁当は総べて引割飯に香の物の外は成らない。結構な物を食べるなら退校して家で食べる事に決まったのは結構。」

『読売新聞』(明治11年2月8日付け)













明治12年

◎本所緑町一丁目外・・・・・十五カ町の組合では組合の共有金の中にて今年の一月より組合の町々限り極貧の難渋人が養育院入りを願った時聞き届けに成るまでの間十六歳以上六十歳までの者へは白米一斗五升、四歳以上十五歳までと六十歳以上の者へは白米九升、また女は四歳以上白米九升づつ恵みたいということを昨日区役所へさし出したといふ。」


『読売新聞』(明治12年1月8日付け)






明治13年
明治14年
明治15年
明治16年
明治17年
明治18年
明治19年

◎貧富の寿命・・・・・ハンガリー国の某統計家は人生長命なれば随って幸福の此に伴うべき理を攻究したり。その統計によれば、富有者は平均五十二歳の寿命を保ち、中等の者は四十六歳、貧者は僅かに四十一歳に止まれりとあり。又富有者は通常伝染病に感しやすく、ジフテリア、気管病、紅熱病等は最も富有者に多く、肺病は貧者に多く、しかし脳病は比較するに貧者に稀なるがごとしと。」


『郵便報知新聞』(明治19年4月16日付け)



明治20年
明治21年
明治22年
明治23年
明治24年
明治25年

◎女乞食気焔を吐き芸娼妓顔色なし・・・・・北海道小樽入舟町奥火葬場近所に、年頃四十ばかりの女乞食あり。同人は盲目にして、三歳余の小児を背負い、七八歳の娘に手を引かれ、二三年前より同港内を徘徊して、一文二文の手の内を乞い、露の生命をつなぐ身なるに、其の娘はあはれ十六、七にもならば、人の目に付くべき容貌なるにぞ、今より仕込みて芸娼妓になさば大金になるは疑いなしと、欲に抜け目なき或る飲食店の女房が母乞食に向かい養女に呉れずやと云えば、其の思召しはありがたけれど、賤しき娘をお貰いになって、何になさると問うに、そは問うだけ野暮なり、大切に育て成長せば、芸者か花魁衆にでもして、全盛の流行妓にさする、其の時はまた強い大尽が見受けして玉の輿に乗るまいものでもない、何んと否はあるまいと云えば、乞食は目尻をキリリと釣り上げ、折角の思召しではありますが御免蒙ります。可愛い娘に芸者や娼妓をさする位ならば、乞食はいたしませぬと、跳ねつけたり。女房開いた口も閉がらず、茫然として居る顔を冷笑って橋の下へ立ち去りたりと。読売新聞に見ふ。」

『大日本婦人教育会雑誌』(第44号 明治25年12月10日発行)



明治26年
明治27年
明治28年
明治29年
明治30年
明治31年
明治32年

◎婚礼に乞食・・・・・備前和気郡塩田村の秦野某といへる若者は村内の河原に起臥しおる乞食娘が無類のベッピンなるより、いつしか情を通ぜしが、このほど隣村より妻を迎え三々九度の真っ最中に乞食娘がその席へ駆け込み、「その杯を私がいたします」と座り込みしに、一座あっけにとられて、花嫁は裸足のまま実家に逃げ帰りしとはイヤはや」

『神戸又新日報』(明治32年5月29日付け)



◎風流乞食・・・・・函館市某方の軒下を宿とせる一乞食あり。主人、彼が煙草を喫っするため吸いがらより失火せんことを恐れ退去を命ず。乞食「吸いがらを恐るる人の愚かさよ。浮世の欲に身を焦がしつつ」と壁に書いて漂然往く所を知らず。」

『神戸又新日報』(明治32年10月9日付け)





明治33年
明治34年
明治35年
明治36年
明治37年
明治38年
明治39年
明治40年
明治41年
明治42年
明治43年
明治44年
明治45年




















コジキ
『THE FAR EAST』






















◎東京の貧民窟・・・・・東京貧民窟の状況は折りに触れて本紙に記載せしことあれど、今度第二慈善旅行を催すこととなりしに付き尚ほ其の近状の詳細を探検して世の慈善家に紹介することとなせり。新網町の戸数と職業別・・・去月其の筋において調査したる処によれば芝区新網町の戸数は総計四百六十三戸にて人口は千八百六十八人なり。内十五歳以下の子供の数は男二百九十三人女二百八十六人計五百七十九人にして、外に三四百人の無籍者あり。而して同所は無届の私生児頗る多く、その筋の調査にても目下男四十一人女三十三人あり。なかんずく北九番地の阿部ヒサの如きは六人、同二十番地野際キク、南三番地竹内ツルは各々四人、同十二番地太田リカは三人の私生児を有せりという。さて以上の者等が如何にしてその日の生活をなし居るかを知らんため先ず左の職業別を掲載すべし。

漁夫九人、人力車一一七人、古物七人、下駄商人四人、洋服職工二人、職工二十八人、日雇い一四六人、土方十二人、瓦積み十三人、魚屋六人仕立屋一人、紙屑拾い六人、井戸堀二人、活版職人六人、荷車挽き二人、左官六人、醤油屋一人、納豆屋十一人、八百屋一人、産婆屋一人、屋根職一人、木挽三人、マッチ張り四人、船大工一人、靴工一人、昆布屋一人、大工五人、菓子小売四人、団子屋一人、荒物屋二人、按摩九人、植木職二人、研屋二人、鍛冶屋五人、散髪屋二人、豆腐屋一人、草履屋一人

表外の人々は(幼年者を除き)大抵諸種の賃仕事をなし居ることと知るべし。
家賃・・・次に新網町における貧民の家賃を記さんに大抵九尺二間にて一円十銭より二十銭、二間に二間にて一円八十銭内外、同じく棟割にて一円ほどなれど尚ほこの棟割に二戸合同しさながら動物園の動物の如く一間を堰切りて住めるもあるよし。かくてこの家賃の取りたてのため家主は差配の外別に金銭取立人なる者を置き日歩にて徴収する事とし、取立人は毎朝毎晩手提鞄を携えて借家人の宅へ押しかけ二銭又は三銭と取り集むるを例とすれどイヤ今日は雨が降ってマッチの箱が乾かなかったとか、又は稼ぎがなかったとか、様々の故障百出してそれすら容易に払い得る者少なく、さすればとて、もし二日分積もるが最後生涯?し崩すことの出来ぬようになるが常なれば、取立人は如何にしても其の日其の日に取り立てる事とせり。即ち取立人及び其の家族は昼間借家人の近辺をうろつき廻りて戸主が稼ぎ先より帰るを待ち受け、夜は一時頃までも交代に寝ずの番をなし、稼ぎ人が流し先より三味線を弾いて帰るとか、又は阿呆陀羅経の木魚を首にかけ、又は袖乞いの看板とも見るべき子供を背負い縁日より帰り来たりて銭の音たたせつつ一文二文の勘定に余念なき処へすかさず飛び込み、その場にて否応なしに取立つるなり。さればもしこの寝ずの番がツイうとうととうたた寝してこの機会を外す時は其の日の家賃はそれにて取れぬものと諦めるより外はなしとぞ。貧民の状態これにてその一端を知るに足るべし。平日にても右の始末なるに昨今は家賃の上に一夜二銭の貸蚊帳を借りる者少なからずしかも梅雨の時期に際して稼ぎは少なく払うべきもの多きが故に高利貸等はやっきとなりて前後より押し寄せ自然銭の引け口を増せしより家賃にも影響して取立人の骨折り一層なりと愚痴をこぼす者多しとか。ここに可笑しき話は高利貸も取立人も互いに同じ機会を待ち稼人の帰れる処を押さえるの外に手なきより思わず同じ家にて鉢合わせ鞘当てを演じイヤ俺の方が早かったから其の二銭はこっちのものだなど喧嘩を始めること毎度なるよし。総じて夕景新網町に行く者にして何事か喧しき声を聞くことあらば、それは高利貸や取立人が其の家に詰め掛け居るものと知るべし。次に屋内の造作は何処も借家人の手にて引き受くる定めなるがせめて破れ畳なりとも敷いてある処は新網町内に三分の一とはなかるべく、他は莚又はゴザ等にて間に合わすが多く箪笥を持つ家とては僅かに十軒内外なりとぞ。又差配人は貸家の板目に打ち付けある釘に最も注意するよし。其の訳はもし少しにても釘に緩みのある時は借家人は直ちに其の板をはぎとり薪に代えるが故なりという。(未完)」






『時事新報』(明治34年7月9日付け)












◎東京の貧民窟(続)・・・・・家の構造その他・・・前項の取立人は南新網に八人、北新網に十二人あり何れも既記の方法によりて家賃を徴収すれど、種々の事情の起こるため如何な月にても六、七十銭の取立残しを生ぜざることなしという。借家人の内車夫は日頃概して身持悪しく、ことに家賃、蚊帳賃の外に毎日輪代を払うの必要ある故、中には借布団はては身に付けたる衣類を曲げ赤はだかとなりて合羽を被りごろ寝の中に日を暮らすもあり。この有様を見ては、さすがの取立人も二の足を踏み其のまま引き返すのやむをえざるに至るを以て車夫に家を貸す事は何れも太く嫌い居れり。しかるにここに又「請け」と称する者あり。所謂羽織ごろの寄合にて取立人の見限りたる家賃取立を安く引き受け、例えば三十五六円のものをも二十五円位にて引き受け戸々に就きて催り取り首尾よく儲けることもあれば、又損する事もあり。これまでこの種の者数多現れたるも大体は失敗におわりしといえば是とても容易の金儲けにはあらざるが如し。尚ほついでながら一寸借家人のこと及び家屋の構造を示すため一二の事実を記さんに借家人の中にても狡猾なる者は差配人へは内密にて九尺二間の家に中二階を造り畳一枚一日三銭の割合にて無籍者を同居させることあり。然るに其の同居人は身の窮屈に堪えかねて籠中の鳥の如く廂の間際などより顔を差し出すため往々其の筋の者に見とがめらるる例もあるよし。又家と家の間は言うまでもなく壁一箪なるが中には壁落ちて穴の抜けたる処よりオイ隣の姐さん之をやろうとて物品など投げやる等の奇談もあり。ツイ四五日ほど前の事とか南新網町八番地に住む者朝起き出でて我が子姿の見えざるに打ち驚きもしやさらわれしにはあざらるかと大騒ぎをなしたる結果右の子供が破れ壁より隣家の布団の内へ転げ込み最も快よげに熟睡し居るを発見し果ては大笑いにてすみたりとか。食物・・・新網の貧民中過半は竈の用意あるも炙り又は煮る器物に至りては之を所持するもの少なきより煮魚等は大抵其の都度買い取るなり。又竈なく金なきものは兵営の残飯を買い露の生命を繋ぐなりとぞ。さて是より其の詳細を述べんに少しく生活向きの好き者は先ず夕景一升入り程の袋を以て其の日の稼ぎ高にずる米(一升十銭より十一銭のもの)を買うの常なれど、それより下りたる者は朝はハ時頃即ち兵営の朝飯終わりて残飯屋が新網町の店(町には只一か所)へ残飯を撰込める時、夕は七時頃即ちの夕飯の残りの輸入さるる頃を見計らい味噌漉を提げ又味噌汁の欲しきものは碗を持ちて押し掛け残飯三銭又は四銭味噌汁は一杯五厘にて買い取り珍味に舌打ち鼓すなり。此の輩の家には何一つの道具もなく又用意もなく命の綱は偏に残飯屋にかかり、もし其の機を外す時はその日の食を得る能はざることとなるより買いに行くものは何れも一生懸命となり中には子供をものみに出して遠くより残飯を積みたる車のこなたを指して駆け来るを望ませ、ソレ来たとの報告を待ちて駆けだすもあり。かかる状況なれば残飯屋の店先は荷の来るたびに人の山を築き、我れ勝に買い取る様は中々物凄さまじき有様なりとぞ。また惣菜は家内の多少にもよるべけれど大抵一度一銭を出して牛蒡人参などの漬物又は煮物を買い菜の浸し物などを望むものは一枚の皿と一銭の銅貨を持って家を出で先ず五厘にて湯煮たる菜を求め之に三厘ほどの醤油をかけさせ次に砂糖その他の物を売る店に赴きて二厘だけ鰹節の粉を入れたる袋一つを求め店にて之を菜の上へ振りかけるなり。その他少し変わったものを食べんとするには総べて右の如く所々を駈け回りて用を達するなり。又魚類は何れも魚屋が捨てものと称し居る腐ったものを買い取るにて其の重なるは鰯、蝦蛄、アミ、蟹等与え何れも一銭程のものンあり。又毎朝牛の大安売り大安売りと呼びて売るに来るものあり。これは牛の雑物を醤油と砂糖にて煮詰めたるものにて一串五片その値三厘なり。而して貧民等は之を買う時フワ又はサクの処をくれという。フワとは柔らかい処即ち腸の処、サクとはサクサクと歯ぎりする処即ち肝の処をいうなりとぞ。但しこの社会にても間々カツレツ、ヲムレツさては鯛の焼き物、蒲鉾、口取などを膳に上せ人をしてその贅沢に驚かしむる事あり。現に南新網に亀村トヨ、北新網に吉田某という老婦は毎朝早く起き出でて亀村の方は見晴、大野屋、芝浜館等の各料理店、吉田は牛肉店いろはを始め煉瓦通りの飲食店に赴き水を汲むなど台所の用を達し其の報酬ととして客の残り物をもらい受け内へ持ち帰りて界隈の者へ安く売りさばくより、かくはこの界隈に似合わぬものを口に入れるなりという。次に彼らの多く嗜む酒は大抵焼酎なるより酒癖も悪く且つ之がため脳病を引き起こし年々夭死するもの少なからず。子供は又所々の菓子屋の箱隅に落ちたるビスケットや煎餅さては蒸菓子の粉などを売りに来るものあるを幸い争うてこれを買うを常とせり。又稲荷の横にこの界隈切っての上等煮込屋あり。上等の蒲鉾hやはんぺんを並べ夜は三時ごろまでも店を開きて新網町内に住むスリをとくいとするよしなれど普通の貧民中之を口に入れるもの少なく殊に昨今の如く梅雨打ち続きたる時は多くは大根ふき等の煮込みにて腹を充たし居るとぞ。因みに記す。貧民中薪炭を買うものなく何れも拾い来るゴミ、炭俵泥薄板等を拾い来たりて用い居るなりと。(未完)」





『時事新報』(明治34年7月10日付け)














◎乞食瓦と共に焼かる・・・・・本所区横川町須賀傳次郎は一昨日午前四時未だ明け烏の啼き渡らぬ頃より己の所有の瓦窯を焼き始めたるに、やがて何処ともなく人の悶ゆる声しきりに聞こえぬ。さては行き倒れならんとて窯の四辺を探したれど、それぞと思う人影もなく、且は窯を離るるにしたがい声の次第に薄れゆくようなるに、窯の内こそ怪しけれと、そこそこ火を減じ薪を取りだして検めしに、果たせるかな一人の乞食年も十五六ばかりなるが煙の中にのたうち居たり。ソレというまま引き出せしに腰より以下は黒こげとなりて目も当てられぬ惨状なるに、早や虫の息となりたれば急ぎ本所署の掛官を迎えて釣台に乗せ同署に送り込みたれども、介抱のもその甲斐なくして同日午後四時、私の名は伊藤治三郎年は十六と言い残して敢えなく息を引き取りたれば、死体は例の如く区役所に送付したる由。多分この乞食は夜来究竟の露の宿りとこの窯の内に眠れる中、一方の口に火を焼かれて脱れ出づべき道を失い、かくは自業自得の死を遂いとげたるならん。」

『時事新報』(明治31年2月22日付け)











◎霖雨と貧民・・・・・連日の雨は刃物よりもおそろしと謡はるる貧民窟の昨今さどや弱りに弱り居ることならんとて昨朝早々四谷区に有名なる谷町字鮫ヶ橋の質店、差配所、酒店、衛生組合、残飯屋等を訪ねて得たる談話を聞くに
▲所謂鮫ヶ橋・・・・・一概に鮫ヶ橋と言えば貧乏人を意味すれど、同所には雲州松江の旧藩主松平伯(直?)も住みたまえり。宮内省の勝間田???も住まわれたり。所謂貧民窟を意味する鮫ヶ橋は一丁目二丁目を有する谷町の中その一丁目を指したるものにて真の九尺二間の長屋は三十三番地に二十二戸、三十四番地に三十八戸、三十五番地に八戸、都合六十八戸、これが即ち貧民と称えられたるものにて人口およそ四百。
▲家賃八十銭・・・・・」


『読売新聞』(明治38年8月30日付け)








◎開墾に従事する鳩山春子・・・・・婦人界における鳩山夫人春子については久しく何等の噂だもなかったが、さてどうした事かと聞いて見ると、目下は良人和夫氏と共に北海道に出かけ、その所有せる地所の開墾に従事しているとのこと。そこで使っている労働者のうちには七十有余の腰の曲がった老婆もあれば、血気盛りの若者もあって、朝の五時から夕方の七時まで春子夫人も鋤、鍬をとって一生懸命に働き、雇人と同じように良人から日給三十銭をもらっているとは面白いではないか。」

『読売新聞』(明治38年8月30日付け)




















◎貧民は何を喰うか・・・・・米が高くなった結果市内に外国米の売出しをなすもの頗る多く、従って其の需要がおびただしいようだが、市内でも有名な貧民窟四谷鮫ヶ橋、芝新網などでは案外に外国米需要の声が聞こえぬ。住民は少しも外国米を口にしない。
▲山盛二銭の残飯・・・・・何故だろう?此の頃は物価が高く不景気で仕事がないが彼らには外国米よりもっといいものがある。それは米も燃料も不要の残飯があるからだ。この方が安上がりだと云って彼等は大抵残飯を買って喰う。何しろ二三合入りそうな桶に一杯二銭という安値だからどうしてもこの方を選ぶのだ。残飯屋は鮫ヶ橋に小島屋外五軒、新網には一軒ある。麻布三連隊、赤坂三連隊、輜重兵大隊、近衛一二連隊から払い下げの残飯を売るので挽き割り飯のボロボロしたものだ。又魚の骨だの馬鈴薯だの沢庵の切れ端なども売る。これも二銭も買えば可成りある。記者が小島屋の店先で実地視察の間に買いに来た数多の貧民は大抵二三銭から五六銭くらいしか金銭を持って来ぬ。五十銭の銀貨を持って来た子供がタッタ一人、それっ限り。
▲六升代には騒いだ・・・・・何れも顔色の蒼白い瘠せこけた者ばかりで着る物はボロボロした実に酷い者ばかりだ。それがボロボロした風呂敷や真っ黒なお鉢を抱えてトボトボとやって来るのを見ると気の毒でたまらなくなる。それが口々に「炭を買う銭もないし米を買うより手間がかからぬからいい」と云っているのを見ても外国米が口に入らぬ訳だ。小島屋というのは二十七年頃から開業したそうなが残飯が一番貧民に大騒ぎされたのは去る三十一二年頃で米が一円に六升になった時であった。それに比較して見ると二升も上がっているのに昨今はそう大騒ぎをやらないのは内職が盛んになって七八歳から手間を取るようになったからでもあろう。雨が十日も降り続こうものならそれこそ大変で残飯の洗い流しでも盛んに売れるが景気が直って米が五升代に下がったら矢張り残飯は売れ足が遠退く。
▲台湾米は臭い・・・・・鮫ヶ橋にある米屋の数は十二三軒で何れも台湾米と日本米とを五分に混合して一升二十二銭位に売っているがホンの僅かしか売れない。何故であるかというも前記の如く残飯の方が安くていいからであろうが又外に一つの理由がある。彼等は、何しろ其の日暮らしをするだけに中々贅沢で台湾米は臭くていけぬなどという。それも全体ではないが、其の実例としては今春麹町の有志が鮫ヶ橋小学校で施米をした時それが台湾米であったので、「施してくれるのは有難いがどうも臭くて」などと云った者があったそうだ。
▲挽き割りぢや残飯と同じ・・・・・挽き割りは一円に六升もするから使ったらよかろうが挽き割り飯を弁当に持って行くも場所柄残飯と思われるそうで彼等の乏しい虚栄からも三等米か四等米でなければ買わぬ。尤も弁当の分だけだから十銭だの五合だのと買って行く。而して矢張り貸しが多くなって近来米屋で夜逃げをする者もかなり多い。新網はまた頗る贅沢で米は一二等でなければなどというものもある。残飯さえ鮫ヶ橋のように売れぬ。又鮫ヶ橋の魚屋で贅沢向という所にはマグロの切り身やナマリなどがウンと仕入れてある。切り身は一切れ二銭位だし八百屋にも枇杷、夏みかんからハイカラなバナナなどがある。」

『読売新聞』(明治45年6月29日付け)」







           
                     





「乞食から屑拾いへ変化」

『団団珍聞』(明治19年7月10日号)
















ビゴー作

「路上で歌う」




















ビゴー作

「貧富の差」



















ビゴー作

「貧しい人の葬式」


















ビゴー作

「屑拾い」












農民(中村不折作)
















貧民窟(中村不折作)

















土工(『最暗黒の東京』より)


















屋台で食事をする車夫たち(『最暗黒の東京』より)















残飯屋(『最暗黒の東京』より)











[◎東京最暗黒の生活・・・・・生活は一大秘密なり。尊きは王公より下乞食に至るまで、如何かにして金銭を得、如何かにして食を求め、如何にして楽しみ、如何にして悲しみ、楽は如何、苦は如何、何によってか希望、何においてか絶望。この篇記する処、専らに記者が最暗黒裏生活の実験談にして、慈神に見捨てられて貧児となりし朝、日光の温包を避けて暗黒寒飢の窟に入りし夕。彼れ暗黒に入り彼れ貧児と伍し、その間にいて生命をつなぐこと五百有余日、職業を改むるもの三十回、寓目千緒遭遇百端、凡そ貧天地の生涯は収めて我が記憶の裡にあらむかと。聊か信ずる所を記して世の仁人に訴ふる所あらんとす。
其の一・・・探検者の人相
某年某月、日、記者友人数名と会餐す。談、偶ま龍動府の乞食に及ぶ。彼等が左手に黒麺包(くろパン)をつかみて食いつつ、右手に空拳を握って富豪を倒さんとするの気色は、如何かに世界の奇観なるよ。イギリスの同盟罷工、フランス共産党、ロシアの社会党、虚無党、其の事件の起こる所以をたづぬれば、必ずそこに甚だしき生活の暗黒なかるべからずと。談ずる者はみな当年の俊豪、天下有志家の雛卵にあらずんば亦是れ世界大経世家の?芽たり。其の議論は毎に宇内の大勢に亘っておのづから年少気鋭のそしりを免れざりしと雖も此段記者の感慨を惹くもの決して小少にあらざりし。時正に豊稔、百穀実らざるなく、然るに米価しきりに沸騰して細民みな飢えに泣き、諸方に餓死の声さえ起こるに、一方の世界には無名の宴会日夕に催されて歓娯の声八方に湧き、万歳の唱呼は都門に充てり。昨日までは平凡のものと思いし社会も是に至って忽然奇巧の物となり、手を挙ぐれば雲湧き足を投ずれば波湧くの世界。いづくんぞ独り読書稽古の業に耽るべけんやと。即ち大事は他に秘し、独り自ら暗黒界裡の光明線たるを期し細民生活の真状を筆端にむすばんと約して?心に鞭ち飄然と身を最下層飢寒の窟に投じぬ。この行元より予に一の資あるなし。亦元より一の声援あるなし。蓋し我れ一個人の学問及び智識が、即ち我が智恵及び我が勤労ないし我が健康が最暗黒の世界において何程我れに福祉を與ふるものなるかを見るは、独り貧窟探検者としての我れを知るのみにあらずして、学問修行者たりし我れを知るにおいて大いに利益あるべく、旦又我が貧に居る一時の課業たるに止まらずして以って我が人生における生涯の活試験たらずんばあらずと。即ち我は我に一厘の資本を與えず、亦一の声誉を被せしめず、所謂着のみ着のままたる天涯の一漂泊的貧児を以って数年間最暗黒裡の食客たらしめんと期したるにありき。天涯の一漂泊的貧児、如何かにして最暗黒裡の食客たりしか。時に九月下旬残暑の炎熱は猶いまだ路上の砂塵を焼くに容赦なく、馬に蹴らる砂、車に跳ねらるるけむり、撒き水のために立ち昇る炎塵、往来の人は蒸せるが如く、殊に労働者の困難、暑にあてらるるの人、往々路上に見る。かかる時の挿絵的光景として常に一群の乞食、朝市の店晒しとなりし生瓜生茄子をかじりつつ軒下に立ち。或は一ト山五厘の腐れたる桃子を恵まれて僅かに飢えを凌ぎつつ猶あらゆる掃き溜めを捜して饐えたる飯、あざれたる魚の骨を拾い食する様は如何かに彼をして慄然たらしめしよ。とはいえ、彼も今は貧児の一人なり。よし其の衣はいまだ乞児の如くやぶれず、其の身はいまだ乞児の如くに穢れずといえども。彼が数日間の野宿と数日間の飢渇は著しく彼の人相をやつさしめて。誰人の眼にも正しく彼は、貧天地の産にして「乞食の児も三年経てば云々」の運命を以って成長せし底の者と外は思われず。路傍の警察官も彼を一のタチンボウとしてとがむるの外にとがむるを要せず、往来の人も彼を一の乞食として憐れむの外に憐れむの事情をもたず。炎天を凌ぐために頭上に麦藁笠一蓋をいただき、煮しめたる如き着物の二つの袂に腐れたる李を包みて忽然と谷中の墓地にあらわれ、乞食の群がり遊ぶほとりを立ち食いつつ行けば或る者は猜疑の眼もて睨み、或る者は胡乱の眼もてとがむるに拘わらず、既に其の同類たるを認識せし眼色を試験して彼は大いに満足し。嗚呼かくてこそ我れ混堂乞児の飯も喰い得べく、らい病患者介抱をもない得べし。イザ速やかに彼等が窟に入りて新しきまろうどとならめや。と貧窟探検者たりし彼が当時のていたらくは実にかくの如くにてありき。彼が野宿、彼が飢渇、並びに堕落せる彼が李の立ち食いは。要するに彼が暗黒大学に入る予備門修業の前一日の課業にてありき。]

『国民新聞』(明治26年8月9日付け)









[◎哀れむべき老婆・・・・・麻布区広尾町小林阿千代(六十三)は老い先短き年なるに頼るべき身寄りもなく、天にも地にも一人ぼっちの心も細き巻きタバコの内職してその日を送り居るうち、先頃より病身となり内職も出来ず近所の人より残飯を恵まれ果かなき露命を繋ぎ居る所を麻布署にて聞き知り、昨朝行路病者の扱いにて区役所へ引き渡したり。]

『万朝報』(明治36年11月2日付け)






[◎憐れの混血児・・・・・横浜宮川町二丁目三十四番地大工小林三造の娘阿若(四十一)は横浜名題の洋妾にて、幼年よりマドロスを合手に売淫し、黒船阿若とあだ名されたる金箔付きなるが、今より二十六年前混血女を挙げたりしも、之を厄介に思いフランス国天主教の保護にかかる横浜元山手居留地八十三番館仁寿堂(俗称尼学校)へ藁の上より呉れ渡したれば、同校にては其の小児にシャリヤ・リーズ(二十六)と命じ、又霊名をアチーと呼びて教育し居たるが、アチーが十四歳となりし時に阿若は心密かにアチーを喰い物にせんと考え、時の旦那なる英国帰化人故小林譲治と謀りて仁寿堂に対し惨酷の取扱いなりとの言いがかりをなして無理に取り戻せしが、去る二十三年中譲治は死亡したるより阿若はアチー諸共上海に赴き貸し座敷を始めてアチーをも娼妓となさんとせしが、兎に角アチーは天主教の学校内に頭を堅められ居れば、如何にしても母の言うことを聞かざるより、二十歳の時祖父なる横浜の小林三造方へ送られしが、混血児のこととて之を娶るものなく昨年三月までは諸所へ下女奉公をなし、昨今祖父方に厄介となり居る処へ上海なる母の黒舟阿若は今回娼妓仕入れ方々アチーを引き連れ行かんと再び横浜に来り、アチーを説き立てしも、とても応じる気色なきより、阿若は大いに怒り、去る二十四日は非常の呵責をなして親子の縁を絶つと称して追い出したれば、アチーも今は途方に暮れ、同日午後四時ごろ泣く泣く戸部警察署へ保護を願い出でしより、早速、祖父三造母阿若を召喚して説諭の上アチーを引き取らしめたりという。]

『万朝報』(明治35年2月27日付け)






[◎不幸の老人・・・・・深川区東六間堀町二十五番地山口重左衛門(八十九)というは、本月二日に倅の重五郎を肺病にて失い、跡には孫の清太郎(九つ)というを残されしが、手足不随意なる老人の身にて如何とも法がつかぬ上、かくて加えて孫は脾疳の病に犯され痩せ衰えてこの世からなる餓鬼の有様に、近隣の者共も傍観しかね、目下この不幸の老幼を救済の尽力中。]

『万朝報』(明治33年10月20日付け)






[◎哀れな盲人・・・・・昨夜七時ごろ小石川船河原に垢染たる単衣着たる盲人の徘徊せるあり。巡査が怪しんで小石川警察署へ連行き取調べしに、この者は深川西町二十三番地高山角太郎(二十六)と呼び、先頃養育院に居り精神病にて巣鴨?癲病院へ移され、去月中退院し、妹なる洲崎井筒楼娼妓菊川(二十四)よりもらいし小遣い銭と深川区役所の救助金を旅費として静岡の縁者を訪ね行きしも、行方知れずとて、一昨日悄然帰京し無一物の苦しさに投身せんと思いし旨?立てし故、又養育院入りの手続き中。]

『万朝報』(明治33年10月18日付け)






[◎貧の果ては・・・・・先ず窃盗か首くくりというの相場なれど、此の頃本所辺には日中飯櫃(めしびつ)を盗み去らるる者多しとか。中には櫃(ひつ)だけを要なしとて、風呂敷持参にて包みに来る者もあり。取り押さえては見たるが、余りの不憫さに恵み遣わす向きもありといへり。]

『東京日日新聞』(明治23年7月31日付け)






[◎芋を食う三年・・・・・浅草阿部川町の小島豊吉(五十一才)というは女房おゆき(四十一才)との間に礼次郎(九才)というを頭に四人の子供ありて、元は菓子商人にて相応に暮らせしが、一昨年米価騰貴の折病気付きて次第に身上を喰い減らせしかば、余儀なく荷車引きとなりしが、馴れぬ事とて米の銭さえ取れねば、玄米少しづつに薩摩芋又は馬鈴薯を交ぜて常食とし、ようやく露命をつなぐうち、去る冬過ちて荷車をひっくりかえし腰の骨を折りて生まれもつかぬちんばになりしかば、いよいよ貧に取詰められ、女房子供が使い走り、又は自身が草むしりに得たるわづかの銭で例の芋を求め、ここに三ヵ年の永き間一日一食で暮らし居るとぞ。]

『読売新聞』(明治24年3月16日付け)






[◎哀れの老婆・・・・・芝区新網町十四番地根岸喜三郎方同居抜井きく(八十六)は寄る年波にて最早手足も自由にならで、其の日の糊口にも困り居たるを、本郷区弓町一丁目九番地帝国細民会の幹事原十目吉氏が聞いて不便に思い、同会より去る十六日より向こう十日間の食料として米二升五合を給与し、尚ほ同人が一生涯飯米をやる約束をなしたるが、其の翌日おきくは眠るが如く死去し、同人には親戚という者一人もなきにより、原氏は其の死体を引き取りて葬らんとせしも、同会の規則には死体を引き取るという条目なき故、余儀なく其の事は思い留まり、制規の通り区役所にて埋葬せりと。]

『万朝報』(明治27年1月19日付け)






[◎東京市街画報(其一)玉鱗子・・・・・市中鉄道は水戸に連絡するもの今本所の太平町に地ならしの工事あり。甲府に連絡するもの今青山に隧道の工事あり。彼処には平地に壕をうがちて土堤を築き、此処には崖を崩して煉瓦を畳む。地底坑を穿つ事十尋、男女数百の工夫入り乱れて働く、男は石を運び、女は是を洗う。中に十歳の小児、六十の老婆あり。厳寒身を凍さざらんとして肩より布子をまとふて其の労に役す。万里の長城、金字塔、数千年の後に到って人は唯其の工事の大なるを見て驚嘆するのみなれども、当年是れが設計者の規模の宏いなると共に、半面には亦是の糊口的人別の辛労ありし事を知らば、よろしく其処に無記名の記念碑をたてて彼等が労苦を慰めざるべからざるなり。]



『国民新聞』(明治27年2月18日付け)





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乞食菩薩














以前は横浜で船頭をしていたが片眼を失明したために
乞食になったという。







◎運動非人に及ぶ・・・・・運動の流行終に非人に及びしと云う一笑話は他にあらず近頃上野近辺の非人は第四回内国博覧会を京都に移されては我々乞食の永年専有物と心得居たる上野博覧会の利益を奪われ乞食権の上に影響する少なからざれば、親分に説いてそれぞれ運動すべしと本郷下谷両区非人の親分旧士族お旗千太という非人党の大首領を委員として上野公園東照宮前に乞会を開くという。これを聞きては京都の非人党亦黙ってはおらざるべし。大阪の乞食亦た喧しく言い出すべし。かくては世の中中々にむさくろし運動も最早この辺で止めたきものなり。」

『日出新聞』(明治25年11月3日付け)









◎乞食を集めて盗を教ゆ・・・・・何んたる横道もの、天神境内に仮屋を構えて果物を商う芋山要蔵というは境内に集まり来る乞食児を勧めて人の物を盗ませ巳れ其の品物を取り捌き方をして遣るを内職とせり。其事此中捕縛となれる盗児意宇郡乃木の澤和喜一郎(十六)に依り顕はれ岸特務の取調べに依り明瞭となり右要蔵は其のまま拘引。」

『山陰新聞』(明治25年12月20日付け)






◎乞食機関車の雪除けに触る・・・・・去る二十五日の午後三時四十五分なりしとか、上り第二列車の走行中黒澤尻里分の踏み切りの処まで来りたるとき、一人の五十前後と見ゆる乞食体の男が酒に酔いしが、足元もたしかならず、こっちにごろりあっちにごろり、ようよう踏み切りの処まで来りし時、この時遅しかの時早し以前の列車が進行し来りたるため機関車の前頭雪除に触れ、後頭部に長さ一寸五分位の摩れ傷、また右額にも傷一箇所を負い一時気絶したりしが暫時にして蘇生せし由なるが、右は千葉県葛飾郡花輪村二十八番地平民青木直次郎(五十一)と云うものにして、多量の酒を飲みたるため酩酊して前条の始末に及びたるものなりと云ふ。」

『岩手公報』(明治25年12月28日付け)







◎乞食の財産二万五千円・・・・・近頃までイタリアローマに住める一人の乞食は老人にて常にミネルバの寺院に至り其の食を乞ひつつありしが、この頃に至り其の乞食の死去したる跡にて同人の貯蓄したる財産十万フラン(凡二万円)ありしを発見したりと。」

『福岡日日新聞』(明治25年12月24日付け)








[◎乞食狩・・・・・神奈川県では近来無頼の遊民が日に増し管内に殖えて来るので乞食係りの巡査を置き、見つけ次第に取り押さえて引き立てられた者今日で丁度二百八十三人に及び、船に積んで海に投げ込む訳にもいかないので、退去を命じると、是より東京へ行くという故、其の運びに取り扱われ、右遊民どもは昨今打ち連れ立って大森品川の各町々へゾロゾロ入り込むそうだが、何れ又其の筋より此処をも追い出さるる事なるべし。。]

『やまと新聞』(明治24年9月26日付け)






[◎子供の乞食・・・・・日本橋魚河岸に群集する子供乞食は去る五月中追い払いたれば、是らの者蠣殻町近傍へ群集し目下蠣殻町組と称し殆んど四五十名の人数にて、巡査は是を追い払わんとするも乞食等は巡査の影を見ては右往左往に逃げ去り、又見えなくなれば群集し家々の軒下に立ちてワイワイ騒ぐので同所近傍の人々は大いに迷惑をなし居るとか。]

『やまと新聞』(明治24年8月26日付け)






[◎乞食の駆逐・・・・・横浜にては是まで敷々乞食を追い払いしが、飯の上の蝿と一般又何時となく入り込み来るより、一昨日横浜警察署にてはそれぞれ手配りをなし市中の乞食二百余人を追い払いたりと。]

『やまと新聞』(明治24年5月9日付け)






[◎分限乞食・・・・・先月十四日夜函館東川町六十九木賃宿伝野会與方に草鞋を脱ぎたるは西沢才太(五十七)といへる乞食にして、止宿当夜より病気になり遂に区役所の手に引き取られ本月四日慈恵病院にて落命せるが、仮埋葬の入棺に際しボロの懐よりこぼれ落ちたるは正金七十三円と五十円の貯金通帳なり。勤倹の頽廃を嘆く金森通倫なら早速「貯金のすすめ」に掲げそうな話なり。]

『万朝報』(明治36年11月11日付け)






[◎盲乞食の放火・・・・・昨晩四時ごろ横浜富士見町一丁目八番地焼き芋商鳥居幸次郎方裏手の雨戸に石油を注ぎ放火せし者あり。幸いに家人が認めて消し止めしが、寿町警察署にては其の犯人を捕らえんと奔走中、網に罹りしは末吉町四丁目二十二番地川原三之助長男幸次郎(十三)という盲目乞食にて、鳥居方に放火せし者にはあらねど取調べの末、去月二十八日の夜千年町一丁目十二番地小島栄次郎所有の紙製造場、翌二十九日の夜山田町一丁目十四番地煙草商加藤清次郎方等を始め外一箇所へ放火せし旨自白せしが、三之助は先年死亡し母は幸次郎を置き去りにして郷里名古屋に帰りたれば、遂に乞食の群れに入りしものなりと。又一昨夜九時半ごろ横浜山下町百八十九番館塩物商林宇三郎方の台所に放火したるものあり。幸いに消し止めたるが翌夜即ち一昨夜の八時ごろ又も同番地消防夫加藤清太郎方の留守宅へ放火せしものあり。是又消し止めしが、この放火の嫌疑者は毛色の変わりしものにて、昨日加賀町署へ引致せられたりという。]

『万朝報』(明治33年11月12日付け)









[◎乞食狩・・・・・去る二十二日王子より千住に地蔵尊の移転式あり。その後参詣人の雑沓を当て込み百余名の乞食が集まり来たり沿道の妨害をなすより、昨日千住署にて狩り立てをなし板橋埼玉方面へ追い払いたりと。]

『万朝報』(明治38年8月31日付け)






[◎乞食の財産(千五百円)・・・・・去る二十二日巌手警察署にて浮浪罪のため一円五十銭の科料に処せられたる乞食は、香川県三豊郡観音寺村山本喜代治(四十四)という者にて、故郷には長男が大工職を営み相応に暮らし居るにも拘わらず乞食をして諸処を徘徊し、数日前同市に入り込みたる者の由にて、貰い集めし金千五百円を所持し居たりとは、花にも受くる風後日はあらざるべきも、青天上の味三日すれば忘れられぬというも無理ならぬ事というべし。]

『万朝報』(明治35年3月25日付け)






[◎米人の乞食・・・・・チャーレスルーサー(三十四)という宿無しの米人、横浜市内の家から金銭を貰い歩きしかどにて警察署から米国領事に引き渡され、一昨日禁錮二十日罰金五円に処せらる。]

『万朝報』(明治29年9月6日付け)






[◎羽織乞食(漫遊先生)・・・・・田舎の景気よきを当て込み、素生の分からぬ書画を豪家へ持ち込み、時によっては強もてにて金銭を占んとする曲者多きよし。地方の人は用心あるべし。]

『中央新聞』(明治24年10月4日付け)






[◎浅間山の乞食狩り・・・・・豊多摩郡杉並村字高円寺の浅間山には是まで乞食多く潜伏し近村の田畑を荒らしければ、同所派出所の巡査は山に入り狩り立てんとするも、何時しか是を知りて姿を隠し、多数の乞食どもは影をも見せざれば、詮方なく仮小屋を取り没ち引揚げる事のしばしになりしが、去る二十二日は隣村堀の内村妙法寺において千部経の執行あり。当日は例年に比し多数の乞食を認めたれば、必定浅間山の乞食が加わりたるものならんと、翌日二十三日本署へ依頼し都合七名の巡査は各自角袖となりて浅間山へ赴きたるに、思うに違わず乞食群集し居りしが、何時も正服を見れば逸足出して逃げ去るも皆々角袖なれば能き客と心得、各所よりゾロゾロと立ち出でて旦那様頂かして下さいと七名を取り巻いて手を出だす所を、ソレやるぞよというより早く手首へ縄をかけ其の場に取り押さえたるもの六十五名の多きに及びたり。かくて一同を本署へ拘引し取り調べたるに、主領とも覚しき者は静岡県庵原郡児島村字小間口百二十一番地青木留吉(五十八)という者にて、同人は去る十年頃謀殺犯にて終身懲役に処せられ北海道に苦役中、二十四年に特赦に逢いて出獄し、その後は乞食となり各所を徘徊の末、二十七年中より浅間山へ立て籠もりしが、その以前より数多の子分附随い、今は女房おちか(三十五)の外に三人の妾さえあり。常に子分をお貰いに出し、自分は山に籠もりきりにて部下の口銭によりて生活し居たるものと分かりしが、彼等は最も雨天を嫌い、降雨に逢えば浅間の拝殿又は末社の床下へ這い入て晴れるを待ち、晴天の折は樹下に莚等を敷き起臥し、其の他別に炊事場、物置等を設け、物置の内には近傍の畑より盗み来たりし西瓜、南瓜、茄子の類を多く蓄え置きたりとの事にて、取り押さえられし六十五名は懇々説諭の上即日追い払いしが、主領は其の筋の人に向かい、是より甲州地方をさして落ち行く由を答えたりと。]

『万朝報』(明治31年8月26日付け)






[◎昼乞食の夜窃盗・・・・・去る六日千住警察署の刑事が公用のため新橋へ行きたる帰途午前十時日本橋際へ来ると、一人の乞食の懐中より銀時計の出で居るを見て、直ちに引捕らえ、尚ほ同類らしき小僧二人をも捕らえて取り調べると、此奴は下谷区万年町二丁目五番地本所仙之助(二十一)といい、昼は乞食をなし、夜は窃盗と変じ、洲崎の貸し座敷某楼の娼妓?袖などに熱くなりおるもの、又二人の小僧は同区同町一丁目十一番地小林勝太郎(十七)と同区徒士町十七番地川村市太郎(十七)という同類なので、昨日検事局送りとなりたり。]

『万朝報』(明治31年8月11日付け)






[◎女乞食の生焼・・・・・本所区中之郷瓦町三番地瓦製造職の遠藤方にて、一昨朝瓦竈へ火をかけたるに、裡には伊勢生まれの長島のぶ(二十七)という女乞食が寝ていて、全身へ大やけどをしたれば、早速養育院へ送りて治療中。]

『万朝報』(明治27年5月1日付け)






[◎乞食濱野商店を騒がす・・・・・壮士騒ぎのぬくもり冷めぬうち昨朝濱野商店は再度乞食のために襲われたり。今其の顛末を聞くに一昨日の午後二時半頃、ヘこ帯にまな板下駄のいかめしき壮士二三人にて所々の貧民へ配りたる美麗なる切符は巾一寸五分長さ二寸にて、其の文句は「記一白米一升右慈善のため此の切符御引き換えに御恵投くだされたく以上五月二十七日光照寺執事濱野茂殿松澤與七殿」と二号活字にて印刷したるものにて、各所の貧民乞食ども数百名昨日の早朝より大いなる風呂敷包を携え蠣売町の濱野商店へ我遅れじと押しかけ、手に手に切符を出だし白米と交換くれよと打ち騒ぐに、同家の人々大いに怒り、何奴が斯かる悪戯をなせしものか当家にては斯かる切符を出だせし事なし、退きとれ退きとれと制すれども、彼等はなかなか承引べき様子はなく、いよいよ喧騒するうち貧民輩は尚ほ四方より集まり来たり店前は黒山の如く、同家にても今は如何んとも詮術なくこの旨日本橋警察署へ急報したれば、時を移さず数名の警察出張し力を極めて追い払いたれば八時過ぎに至りて漸く彼等の姿を認めざるに至りしが、一時はなかなかの騒ぎなりしという。然るにても切符は如何なる者の手より出でしか不審の至りなりとて、其の筋にては目下厳しく探偵中なりと。]

『万朝報』(明治27年5月29日付け)






[◎乞食の保安条例・・・・・府下に乞食の増加せしは維新以来去る明治九、十、十一の三ヵ年に最も多く、当時の大警視川路利良氏は何かの参考にもならんかとて、全国を通じてこの乞食の統計表を作り、種族年齢より一日平均の貰い高等を詳細に取り調べられしことありしが、目下はその乞食が先年に増して府下に散乱し、ことに浅草公園地などにては仁王門際に群をなし、人さえ見ればうるさくつけまとい、たまたま遣らねば喧嘩を吹きかけて暴れ廻るなど、追々悪弊盛んになる有様に、このままに打ち棄ておく事もならねば、この度これ等の者に保安条例を発して退去せしめらるるはずなりという。]

『読売新聞』(明治24年3月6日付け)






[◎風流乞食・・・・・芭蕉翁が行脚の道すがら見出せし路通ほどの俳家にもあらねど、これまた一個の風流漢なり。一昨日の午後一時ごろ芝区桜田本郷町の新道を身には垢つきたるボロをまとい菅笠真深にかむり大小の袋幾個となく腰の辺に結び、門並一文乞いして歩るく乞食ありしかば、巡行の警官は見とめて訊問する所ありしに、乞食恐る恐る菅笠を脱ぎ、いと面恥ずかし気に、我は新潟県越後国柏崎の戸田藤吉(四十一)という者にて、斯く人の門辺に立って一文二文の合力を仰ぐは身の置き所なきがためになす所業には非ず、実に乞食なして全国の名所旧跡を巡覧なし、思うがままに平素好む所の俳句を吐かんものと、三年以前に国許を出るおり別に親戚妻子とてもなければ家地面は隣家へ托し、足に任して行脚をなし早四国九州京大阪も見尽くし、これよりは陸奥の方へ杖を曳かんと心組みおれりとて、頭陀袋より銅貨青銭取りまぜ五円程の貯えを出し、その余腰の周りの袋より種々の食物を出だして示せしかば、警官はその案外なるに驚きしが、とにかくかかる姿をなして袖乞いをなす事は相ならずとて懇々説諭なしければ、乞食も大いに覚りし如き面もちして幾度かぬかずき足を早め土橋の方へと赴きたるが、何時か姿は見えずなりぬ。]

『万朝報』(明治27年1月25日付け)






[◎女乞食の生焼・・・・・一昨日の正午頃品川裏手ゼームス側火薬庫脇の近辺より黒煙の立ちのぼりたれば、素破出火なりと人々駆け付けたるに、一戸とは名ばかりの家屋が最早焼失して、灰の中に人間らしきものの横たわり居るにぞ。一同不審に思いこれを引き出し見れば一人の女が生焼きになりて息も絶え絶えなれば早速品川警察署へ持ち込み手厚く療養を加えたるに、此者は品川町大字北品川宿百二十番地平民鈴木この(五十四)という老婆にて、続く不幸せにあって不具なれば、今は乞食となりはて漸うに露命を繋ぎ、右の所に藁を以って小屋を造り雨露を凌ぎ居りけるが、此の程の寒気堪えかね、すり鉢へ火を焚き暖め居たるうち火の藁小屋へ燃えうつりたれど、不具のため打ち消すこともならず、阿鼻叫喚の苦しみも人家離れし所なれば、人々の馳せ付けたる頃は既に全身を黒こげにしたる次第なるが、同人は遂に昨日の午後四時ごろ養育院へ送らるる途中にて死亡したれば、北品川宿附字海蔵寺へ葬りたり。]

『万朝報』(明治27年1月12日付け)






[◎琉球の乞食・・・・・乞食三日にして止む能はずとは特に本県の乞食を指すの俚諺という可し。居を市端に構えて極めて富裕なり。而して村里には乞食なし。其の家に在るや中等人民と敢えて劣るなき衣食をなし、酒に酔い、三味線を弾じて夜深に及ぶ。毎朝弊衣を替え賽袋をさげて近村に通ずる沿道に出で、擁して甘藷を市に商うものより一個づつを求む。たまたま拒むものあれば裾を捕らえて又行かしめず翌日之を市に鬻ぎて十二銭至二十一銭を得。故に乞食の勢力随分強し。其の市中に徘徊し軒下に立つもの特に最たり。もし彼等を叱すれば益々理屈をぬかして決して去らず。又小銭一枚を与えれば怒りて之を突き戻し二枚以上にあらざれば受けず。之を受けてなお且つ焼き芋を強請す。去るの時固より礼に及ばざるなり。其の無礼なる悪むべきものあり。時としては賽袋と籠を天秤ににないたる従者を伴へる乞食を見る、怪しかる次第なり。内地人の内には絶えて行かず、蓋し其の叱責を恐るるなり。故に官にある人其のうるさくしてしっきを感ぜず取締りの法を講ぜざる亦其処なり。]

『国民新聞』(明治27年5月2日付け)






[◎乞婆風流を解す・・・・・近頃下野国佐野町辺を徘徊する一乞婆あり。元は難波の由緒正しき家に生まれたりといふ。人之に紙筆を与ふれば彼れ二首の歌を書す。曰く。「難波江のよしあしに身を置きかねて遠きあづまの花を見んとは」「身の上を誰に語らんよしもなし我に均しき人しなければ」。]

『国民新聞』(明治27年5月4日付け)






[◎乞児・・・・・時は一昨日なりき。五、六歳なる一人の乞児焼き芋の皮をかぢりつつ本所の方より来りて浅草区に入らんと吾妻橋を渡り終らんとするに、橋のたもとに立番の巡査あり。剣を按じ一声乞児を叱りつく。乞児は悲泣して通したまえと哀願すれど、巡査は遂に乞児を本所の方へ退かしめたり。乞児は泣く泣く本所の方へ戻りて橋のたもとに至るに、ここにも本所管轄の巡査立番して前の巡査のごとくなかなか乞児を通さず。遂に乞児は橋の中央にぶらつき、行きも戻りもならず泣き叫び居たるが、そのうち雪さへ降りだして乞児の面をうち、いとど憐れに見えたり。早く貧民救助策を立てたきものなり。]

『国民新聞』(明治27年2月18日付け)






[◎乞食を拷問したる巡査の免職・・・・・去十八日の午後五時ごろ神奈川県警察部の裏手において本町派出所の巡査二人が乞食三名を捕らえ来りて拷問したることは既に各新聞紙上に記載せしが、右の巡査は横浜警察署詰矢田部太一郎、岡本直太両名のよしにて、菅井警部長はそれぞれ取り調べの上、昨二十三日いづれもを免職せしという。]

『東京日日新聞』(明治24年10月24日付け)






[◎乞食に保安条例・・・・・神田区内には下宿屋多き故、食い残りの品を目当てに乞食共多く徘徊し、毎日午後二時ごろになると一ツ橋堤上に数十の乞食群集する故、宮城近き所取締り上不都合なりとて、右の乞食共は一昨日尽く追い払はれたり。]

『東京日日新聞』(明治24年7月23日付け)






[◎乞食の鑑札・・・・・近年至る所乞食繁殖し、狩りても狩りても中々に狩り切れず、されば香川県高松市にては去る十三日左の如く告示せり。
近頃隣県において他府県の乞食輩を追放せり。随って右無頼の者追われて県下へ立ち越し者多く、有之趣を以って本県にあっても巳に各郡村皆之が追放に着手せり。此時に当たり亦断乎厳重なる取締法を立て、他府県又は他郡町村の者を悉く駆逐せざるにおいては、終に行く所として乞食?を見ざるなきに至るべし。然し本市に在籍せる無告の窮民を救助するは便宜上己むべからずといえども、今日の情況を以って観れば、市内のものの他方に往き、他方の者却って市内に来り食を乞ふの有様にて、更に自他の差別なきものの如し。故にこの際他地方の者は総て原籍へ放逐し、単に市内の者に限り標札を付与す。這は在籍を判明ならしむるに止まれば左の如く本市と重に関係ある接続村は互いに其の形?を異にして相混ぜざるを専らとせり。よって標札を所持せず又は所持するも其の形を異にするもの食を乞い金品の投与を求むるものあるときは断然之を謝絶し、再び他方の乞食をして本市に立ち入らしめず、今回放逐の無効に帰せざる様注意せらるべし右告示す。
明治二十四年八月十三日 高松市長 赤松 渡]

『東京日日新聞』(明治24年8月21日付け)






 ◎乞食坊主船頭を斬る・・・・・千葉県東葛飾郡浦安村字堀江三百七十六番地新井長吉の長男重次郎(二十歳)と云うは同郡字猫実の某の荷船に魚を積み込んで日々日本橋の魚河岸へ送り居たが、一昨日の午前六時頃本船町河岸の平田船へ例の如く荷揚げなさんとせしに、数名の乞食どもが筵を被ってごろごろ寝ていて荷揚げの邪魔なれば、之を追い払はんとせしも、乞食等はわざと立ち去らぬ処から、重次郎もエエイケ邪魔な乞食と有り合う盤台にて水をそそぎかけたので、蜘蛛の子を散らせし如く逃げ去った後で、重次郎は何気なく荷揚げなしおる処へ筵を頭から被った一人の乞食がそっと忍び行き、隠し持ちたるナイフにて物をも云わず重次郎の背部へ切りつけ、尚一ヶ所突き立てしかば、不意をくった重次郎はアッと言ってその場に倒れし間に、加害の乞食は飛ぶが如くにいづれへか逃げ失せたり。それと見るより近所に居合わせて人々が駆けつけ、重次郎を介抱なした上、この旨日本橋警察署へ訴え出でしかば、同署では直ちに刑事巡査をして加害者を八方捜索せしめけるに、午後三時頃に至り、中洲真砂座に潜り込んで見物なし居たを探知して捕縛なしたるが、この乞食坊主は千葉県東葛飾郡野田村生まれの武田島吉(十九歳)という宿無しにて、魚河岸の車力の手伝いをしたり、又乞食をなし居る者と分かり一昨日検事へ送られたり。」

『都新聞』(明治30年6月18日付け)





 ◎乞食のツラスト・・・・・米国フィラゼルフィア市にては乞食すら一のツラストを組織せり。以ってツラストの流行する事を知るに足らん。」

『労働世界』(第三十八号 明治32年6月15日付け)





 ◎スリと乞食小僧の大喧嘩・・・・・一昨日は浅草福井町三霊橋弁天の縁日なりしかば、午後六時ごろより下谷万年町二丁目五十九番地中島ひさ方今泉徳太郎(十六歳)山本富之助外七八人のスリが稼ぎに出かけしに、下谷山伏町の乞食小僧アダナを乞食源(十六歳)と云えるが此れも十人ばかりの仲間と共にスリ稼ぎに出かけしに、双方衝突して遂に大喧嘩をはじめ、乞食源は矢庭に懐中より洋刀を取り出して徳太郎の左の乳の下を一突き、其の傷肺に達する程の重傷を負わせ、尚ほ富之助の肩先を二ヶ所まで突きし大騒動に派出所にては非常報知器をかけ一時は大混雑を来たしたるが、加害者は逃げ去り無宿宮崎庄次郎(十二歳)と云える乞食小僧のみ捕縛されたりとの事なり。」

『万朝報』(明治28年1月15日付け)





 ◎乞食、宮闕を拝して泣く・・・・・去る一日東天紅を放つの際、一人の乞食広島西練兵場内に在る大榎の下に草を払ひて端座し、破れたる桐油の上に一の徳利と土器とを置き、北に向かいて大本営を拝し大地に伏して嗚咽傍ら人なきが如し。通行の某軍人怪しみて之を誰何すれば、彼れ乞食は容を改めてさて云うやう、明治二十八年の元旦に当たり万乗の尊きを以ってこの狭隘なる宮殿に起臥あらせらるのみにても畏れ多き事なるに、我が征清軍の艱苦思し召されて連戦連勝の光輝ある本日の新年式をも挙げさせられず以って、帝国百年の大計をお確定あらせられんとするの大御心を仰ぎ奉れば、王土臣民の分として誰か感泣せざる者あらんや。身?乞の悲しさには盛饌を以って聖寿を祝し奉つること能はざれども、聊か聖運の長久と王師の大勝を祝し奉つる所にして覚えず。皇恩の高きに感じて流涕に堪えざる所なりと言終わりて悠然席を?め去り亦行く所を知らずと。」

『万朝報』(明治28年1月6日付け)





 ◎乞食清国紙幣を拾う・・・・・横浜市石川町二丁目に小屋掛けをして居る乞食横田銀次郎(八十八歳)は、一昨日清国の百両紙幣一枚、二十両紙幣二枚、我兌換一円紙幣一枚を居留地の清国両換店万泰方へ持ち来り両換をしてくれと云っておる所を、早くも其の筋の人に捉まり取調べ中なるが、同人は海岸通りで拾いたりと云えど、未だ遺失せし届出もなしと云う。」

『万朝報』(明治28年2月22日付け)





 ◎乞食大金を貰い損なふ・・・・・千葉県生まれの乞食横田銀次郎(八十八歳)は、一昨日横浜居留地七十二番清国両換店万泰方に至り身分不相応の両換を乞いたれば、同店にては加賀町警察署へ密告し同人を取り調べしに、百円外国銀行手形一枚、二十円同二枚、日本十円紙幣一枚外国一円銀貨一枚所持し居たることは前号に記せしが、右は日本漫遊のため百六番館に滞在せるフランス人ホイホニー(四十歳)が発狂の上に与えしものと分かりしも、発狂人より物を貰うも有効ならざるより、之をホイホニーに返さしめ、フランス国領事はホイホニーを保護し、本日出帆の汽船にて帰国の途に就かしめたりと。」

『万朝報』(明治28年2月23日付け)





 ◎乞食者の取締法・・・・・を設け、彼らをして悉く北海道に移し、生産的労働者たらしめんと欲するにあり。彼らの乞食者となって人の門戸に食を求むる所以の原因種々あるべしといえども、要するに生計を営むの要素たる智識と財産とに乏しければなり。人は交際の動物なり。自治の動物なり。而して彼らは独立の力なきが故に社会に歯する能はずして、社会外に一種異様の社会を造成し、恥を忘れ、身を忘れ、或は?頭に暇寝の夢を結び、或は樹下に雨露を凌ぎ、遂に路傍に死して不?の鬼となる。彼らといえどもよもや好んで斯くの如きの境遇に沈淪するものにあらざるべし。又不得止に出づるならん。然れども彼らの現存するがために社会に及ぼす処の弊害は果たして幾何ぞや。殊に国家経済の上において其の甚だしきを覚ふ。」

『東京日日新聞』(明治24年5月10日付け)





 ◎小娘、乞食に恋す・・・・・世に落ち果てて袖乞いの恥を忍ぶにはあらで昨日の乞食より成り上がりて今は日暮里火葬場休息所藤岡方の下足番をなし居る飯沼ならぬ田中勝五郎という男あり。同じ所の休息所轟忠政の娘阿喜代と呼ぶ今年十五の初花と昨年中よりあやしき仲となりしを、阿喜代の父忠政が苦々しき事に思い、厳しき意見を再三娘に加えしも、内々の関係を絶たざるより、この上は是非なしと阿喜代を無理に麻布区六本木町海軍製作所職工小倉清次郎へ嫁入りせしめしは同年十二月中のことなりしが、如何なる過去の悪縁にや、阿喜代は乞食の勝五郎を思い切り兼ね、夫の留守を覗いては同人と密会し居たることの何時しか人の噂に立ちければ、阿喜代、勝五郎は濡れぬ先こそ露をも厭え今はとて、桜の散るのに雨が降るこの頃の闇夜に男の?りならぬを幸い、互いに手を取り合いて南千住なる乞食の親分の許に姿を隠したるを、父忠政が何とかして手を切らせんものと苦心するも、阿喜代はいやじゃいやじゃと首を振りて月に十五円づつ貰い二人で暮らしたしと言い張り、今に家に帰らずとは浄瑠璃にもならぬ恋話しなり。」

『万朝報』(明治33年4月23日付け)





◎女ゆえの乞食・・・・・前項には少女の乞食に恋したる話あり。ここには勇士の子が恋ゆえに乞食とまで成り下がりし話あり。さても日清戦役の折柄平城において戦死をなしたりし陸軍歩兵少佐小宮山正寿に正彦(二十歳)寿一郎(十八歳)と呼ぶ二人の遺子あり。未亡人は府下大久保村百人町に住み、兄弟を養育して兄の正彦は既に中学校を卒業して陸軍士官にならんとの目的を立て、弟の寿一郎も中学四年級にありて勉励中なりしが、未亡人は昨年の春頃病に罹り、遂に亡き夫の跡を慕ふて帰らぬ旅に赴きたるより、其の跡は正彦が寿一郎を保護しつつ家政を立て居たりしが、弟の寿一郎は何時しか悪所に踏み迷い、新宿の貸し座敷丸岡楼の娼妓松島(十九歳)というに魂を抜かれ、兄の意見も聴き入れざる始末なるより、正彦も持て余し懲らしめのため寿一郎を放逐し一切構い附けざる事となしたる故、寿一郎は牛込区市ヶ谷田町に住居する友人を頼みて或る所に下宿をなし、巻きタバコの内職をもって幾千かの金を儲けんとなしたれど、其の賃金は実に些少なるものにて到底糊口もむづかしきに、松島の事は尚忘れ兼ね兄より貰い受けし衣類夜具等を売り払いて、金のある内は松島の許へ通い居たる報いにて、遂に下宿料も滞りて又下宿屋より放逐され総ての友人には絶交されし事とて、今は身を寄する方もなく哀れや乞食と成り下がりて、飼い主の無き犬猫と斉しく人の軒端に雨露を凌ぎ、苔溜を捜して口を糊するまでの果敢なき境界とはなりたるが、未だ迷いの夢醒めずして松島の写真などを肌に附け独りのろ気て居るとは、さても嘆かわしき?落といふべし。」

『万朝報』(明治33年4月23日付け)





 ◎乞食の上前をはねる無慈悲者・・・・・世に乞食ほど哀れなる者なしと思えば、其の又哀れなる乞食の貰いの上前はねて口腹を肥やす人鬼あり。本所入江町に住む何某(四十三歳)というは女房をお何(三十八九)といい、小金を貸して無慈悲に貧民の膏血を絞り、かねてより近所の憎まれ者と成っていたが、何時のころよりか別に一つの儲け口をこしらえたり。貧困頼るなきの不幸者に鼻糞ほどのはした銭をやって養いかねている女の子をもらい受け、女房がもと地獄をしていて少しは三絃のかじれる処から之にペコペコ三味線をあてがって宵はまちか一つとや位を習わせて、二人づつを一組とし毎日朝の六時から夕の六時まで市中を貰って歩かせ、其の日の貰いが八銭以下の時は途中で買い喰いをしたものとみなし、夜食には腐りかかりの香物少々を菜にして一膳半しか喰べさせず、五銭以下の時は握り飯一つきり、之に反し十銭以上も貰ってきた時は飯三膳に野菜を添えてこれを最上等のもてなしとし、子供の嬉しがること通常の者が八百膳のお料理を頂戴したよりずっと上なり。もし又貰いの少ない事三日四日にも続こうものなら、それこそ大変、飯を一膳もくわせぬ其の上に棒責め針責め呵責の苔見ぬ世の地獄のかくやらん。去れば子供等は帰路集まって銭勘定をなし、貰いの少なき者あれば多き者より貸してやり一時の難を救いども、一同貰いの少なき時は救はん術もなく許り門口より声を上げ泣いて詫ぶれど聴かばこそ、又泣く真似か其の手は喰わぬ餓鬼の癖にいけっふてえ根性だと情け容赦もあら療治いけみころしみ責めらるるのと食料の分量少なきとにより、子供はいづれも火箸に目鼻と痩せ衰え、眼も当てられぬ姿なるが、今も同家にはこの不幸なる子児十二人を養ふといふ。」

『東京朝日新聞』(明治25年10月20日付け)






 ◎新橋の乞食小屋・・・・・近頃設置せられたる新橋電話局の側に間口一間半奥行二間の建物あり。新橋停車場へ運送し来たる郵便馬車の厩舎なりとの事なるが、何時見ても一匹の馬だにあらず、却って数多の乞食ども吾が物顔に入り込みて夜はここに轉寝の夢を結び、昼も必ず二三人は居残りしが、過日来は五月雨に降籠められて、出るにも出られず、蓬々たる乱髪して菰を身に巻き轉げ居るもあれば、しきりに??の中を漁りて虱など拾ふもあり、其の有様見るに堪えず、通行人は何れも鼻を摘まみ顔をそむけて駈け足でここを通過するを例とせりとぞ。新橋は東京の中枢にして百貨??の繁華地なるに、乞食のために棲家を造れる其の向きの思惑こそ心得ねといふ者ありき。」

『時事新報』(明治30年7月20日付け)






 ◎乞食狩・・・・・近頃かきがら町界隈に十一二より十四五位いの乞食数十人徘徊し、空家などへ入りて夜を明かし、折々木片など拾い集めて焚き火をするなど不用心限りなければ、近々久松町警察署にても乞食狩りを行なう由に聞きしが、小川町警察署にては既に昨二十一日管内を徘徊する乞食を悉く引致し、乞食や外と管外へ追いやらひたり。」

『東京朝日新聞』(明治25年12月22日付け)






 [◎舶来の乞食・・・・・一昨夜三名の西洋人が新橋停車場に来たりて車夫詰所に入り、ここに眠らんとする様子に警官が説諭して立ち去らしめんとしたる処、その内一人は立ち去りたるも、残る二人の者は銭を持たず空腹にて堪え難しとの事に、居合わせたる宣教師が五十銭を恵みてパンを喰はしめたるが、この二人は英国生まれチャーリー・カリンス(二十一歳)、墺国生まれのラースタリ・メラングリン(二十一歳)なりと。]

『万朝報』(明治33年6月10日付け)






 [◎乞食、仲間の貯金を盗む・・・・・幾千という大金を蓄ふる乞食の西洋にある事は人の知る所なるが、我が国にても随分身分不相応の金を蓄えおる乞食なきにあらず。大阪府西成郡木津の者にて、今はいざりの身の職業にもありつきかね、処定めず乞食となりたる山本豊吉(五十七歳)というは勤倹家にして、十七円六十二銭という金を蓄え腹掛の丼に入れて虎の子のように愛しおり、人なき折を窺いてはそれを出して独りほくほく喜びおりしが、その有様をば見て取りしものか、やはり乞食の早川文治(十四歳)という小僧が去る二十四日午後十時ごろ、京橋区桜河岸際の土蔵の間におりし豊吉になれなれしく口を利き、その夜をそこにて共に明かせし後何処へか立ち去りしが、豊吉は後にて虎の子の十七円が何時の間にやら煙となりしに心付き、一昨夜京橋警察署へ訴えしにぞ。同署にては探偵の上同夜十二時ごろに至り文治を引き捕らえしが、文治は盗み取りたる金子の中、費消せしはわずかに六七銭にして其の余はことごとく同区松屋町三丁目三番地の路地の塵溜の中へ隠し置きたる由を白状したるより、文治を案内者になして件の塵溜より金を取り出して豊吉に渡したるに、豊吉は狂するばかりに打喜び、誠におありがとうござります。]

『万朝報』(明治33年6月27日付け)






 [◎太い乞食・・・・・小石川区内を古洋服を着た乞食が毎日徘徊していたが、どうした事か一昨日は新しい黒の山高帽子をかむり、フランテルのシャツを着て、新しい半靴を履き、指に金色の指輪をはめて、上着はやはり古洋服を着ている様子が怪しいので、取り押さえて調べると、当時無宿富永徳蔵(三十七歳)という者にて、身につけたる品々は前夜牛込寺町の缶工場へ忍び入り盗みたる物と白状したれば、検事局送り。]

『万朝報』(明治26年3月1日付け)






 [◎見識ある乞食・・・・・処も風流洒落の花の都パリに哀れと尊厳とを扱交ぜたる一人の盲目の乞食あり。顔色憔悴形容枯槁せりといえども、此奴もしも目の不自由ならざりしならんには浮世の人を眼下に見下す胆力ありながら却って之を外さぬ一種の英雄なるべし。其の次第如何にというに、彼が胸に懸けたる一枚の板には、行路の人が其の良心を痛ましむる苦しみを汲み取りたる思いやりの深く、さりとて毫も己の品格を落さざる一片の掲示あり。其の文に、『余に僅々一銭を投ずるを恥づることなかれ。余は盲目なり。』と。]

『時事新報』(明治25年11月27日付け)






 [◎乞食旧恩を報ず・・・・・小石川区久堅町に住む元田某というは旧徳川の流れに沽ほいて禄二百石をいただきし身分なりしが、さても計りがたきは世の変遷と人の浮沈、王政維新の波荒く士族は一般に禄を奉還して、公債を求め地所など買い入れて、それぞれ活業を立てねばならぬ境涯と換われば、元田も前記の所に地所家屋を買い入れて日々の暮らしも何不足なき住まいをなしぬ。その頃、このあたりに一人の乞食徘徊せり。いかなる者の果てにや名さえろくろく知る者なけれど、全身芋虫のごとく青ばみて、見るも気味悪き姿に、人々は只、ブクレブクレとあだなを浴びせり。この乞食、毎日巣鴨、白山へんをもらい歩き元田家へも度々来て勝手元に憐れを乞い、ようやくわずかばかりの洗い流しなどをもらいて露命をつなぎいける。さてもその後、この乞食、運良く出世の糸口を切りたり。その次第は、かの戊辰の役の際、榎本氏ら脱走を計りし時、いかなる運の回り合わせにや、遂にその部下の一人に加わりて函館に航し、五稜廓において少なからぬ戦功を立て頭角を現してより、その名も人に知られ、榎本氏もこれを選抜して衆士の劈頭に置きしより、たちまちにして以前の乞食とは打って変わり、両刀をたばさむ武士となりすまし、その後、まもなく榎本氏らに随行してロシアに航し、かの国にて靴商に雇われ、専心靴製造に勉強し天性の器用はたちまちにその術を呑み込み、同じ職工の中にてたちまち敏腕の聞こえ高くなりて師匠もこれまでと許しけるに、我もいつまで見知らぬ旅にさそらうべき、是より故国日本にて靴の製造に従事して天晴れ腕前を知らせんものをと、本国指して帰りしは明治六年のころなりけり。されど、その折は物情騒然たる維新の初めにて、なかなか靴製造の業など開くべき時運にあらざれば、二三ヶ月の後、またまたロシアを指して赴き、世の風もやや静まりし明治十一年のころようやく帰京して、本所二つ目に小さき店を開き、わずかに靴製造の職を営みおりしが、今は同所にてさかんに靴の製造に従事し、諸官省にも出入りする御用商人となり上がり、彼が作る靴ならではとまで身に余る栄誉をこうむり、松本某とて、今は同業間に誰知らぬ者もなき身分となりたり。話変わりて、先の元田某は乞食の運とは逆比例にて、家業日に日に衰えいき、久堅町の地面家作も人手に渡り、遂に家族を引き連れて神田猿楽町に借家住居の細き暮らしを立て、自分は大蔵省の小使いとなり、日々労働にあくせくたりしが、同省の改革に免職となりしよりぱったりと生活の道ふさがり、詮方なしに知るべの許を東奔西走してようやく去月、砲兵工廠の職工となり、日々、煙の中にくすぶりて必死と働き、薄き給料にて家内の口を糊し、幽けくその日を送りおる中、四五日前、小石川砲兵工廠の前通りを水道橋の方へ、二人びきの腕車勢いよく走らせて乗り行く美髯の紳士あり。折からその車とすれ違いたる元田の身なりをつくづく眺めいたる車上の紳士、何思いけん、ただちに車を止め、元田さん、元田さん、と呼びしに、元田は振り向きて見れば、一面識もなき人なれば怪しみて、いかなるお方にや、と尋ねしに、ここは道端にてお話もできかねれば、失礼なれど飯田河岸なる富士見楼までおいでくだされ、そこにて貴殿に語るべき身の上話ありと、言はるるままに元田は誘われて同楼に行きしに、紳士は先ず酒肴を命じてさまざまの饗応、さて、元田に向かいて姓名を名乗り、乞食のブクレより今の身の上になりし本末を詳しく物語しに、元田はそぞろに今昔の感にたえず、昨日までブクレに食を与えし身が桑滄の常とはいいながら、今はごらんの通り見る影もなき境涯となりければ、紳士は露命をつなぎし当時の恩を謝し、懐中より金五十円を取出し報恩のしるしとて之を与え、かつ我が住所をも告げて立ち別れしが、松本は元田の身の上をなお不憫に思い、近日、元田が家族一同を我が許に引き取りて旧恩を報いんと言いおるとぞ。]

『読売新聞』(明治27年2月26日付け)










◎乞食は旧友・・・・・二十四日午後二時頃赤坂区青山南町五の五十七地先に挙動不審なる四十前後の乞食がうろつき居るを折柄通行の青山分署の塩野目巡査が認めて署へ連行き何か業につくよう懇々説諭せしところ、乞食か聞きおわって感に堪えたる風にて『さすがに旧友を思うてのご親切しみじみと身に応えました』との事に塩野目巡査は大いに驚き『乞食に友人は持たぬが』とよくよく見るとこの乞食は同巡査と同郷なる栃木県磯谷郡栗山村八木沢次郎(三十七)といい、日清、日露の両役には共に同じ隊の兵士として従事したが沢次郎は除隊後農がいやさに家を飛び出し土工から立ちん坊遂に乞食とまで成り下がったものと知れたるより同巡査は気の毒に思い四谷の某労働組合に周旋してやりたり。」

『万朝報』(明治43年3月25日付け)










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