夏目漱石



明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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夏目漱石




















夏目漱石




































『明暗』自筆原稿



















夏目漱石の墓
























◎夏目漱石氏逝く/現在我が文壇の泰斗/昨日午後七時胃潰瘍の為に・・・・・本社記者夏目漱石氏は近年健康著しく回復し六面連載中の小説明暗を執筆中なりしが先々月頃より少しく糖尿病の兆候あるより子弟の間柄なる眞鍋博士を聘して療養の結果殆んど全治したるが去月十六日?の糟漬を食せしより胃痛を覚え遂に持病の胃潰瘍を再発し多量の内出血をなしたるより宮本、眞鍋、南の三医学博士及び井上、阿部、佐藤三医学士を聘して療養を加えしも二十二日以来殆んど絶食の状態なるより次第に衰弱を呈し且つ更に第二回目の内出血あり容体刻々に険悪に赴き遂に八日夜より漸次危篤の状態に陥り数回の注射も効なく九日午後一時頃全く昏睡状態に陥りたるより愈々最後の食塩注射を行いたる結果幾分脈拍を算ふるに至りたるも遂に回復するに至らず、夫人きよ子令息令嬢を初め中村是公、大塚文学博士、一高教授畔柳、速見氏等の知己及び門下生等四十余名に打ち囲まれつつ六時五十分遂に逝去せり。享年五十歳家族は夫人きよ子(四十)長女ふで子(十八)次女つね子(十六)三女えい子(十四)四女あい子(十二)長男純一(十才)次男(九才)等あり。
◎文豪の最期/深刻なりし/臨終の模様・・・・・尚ほ臨終の模様について眞鍋博士は語って曰く。『午後二時食塩注射を行うと呼吸も穏やかになり脈拍も減じたが間もなく再び呼吸逼迫し『水と葡萄をくれ』と云われ頻りに胸の苦痛を訴えて『早く胸と頭を冷やせ』と促された。時に午後五時半頃であったが六時になると『苦しいから注射をしてくれ死ぬると困るから』と云われた。之によって見ると先生は此の時迄死を覚悟して居られなかったようである。それから漸次苦痛が増し『胸と頭に水を水を、水をぶっ掛けてくれ』とせがまれるのであるがそれもならぬので看護婦が手拭を湿して顔を撫でる。先生は声を荒げて怒られた。看護婦もやむなく水を含んで顔一面に吹きかけてあげた。すると先生は物静かに『有難い』と一口云われた。之が実に先生の最後の言葉であった。』」
『東京朝日新聞』(大正5年12月10日付け)
































































◎広告記

『読売新聞』(明治45年9月22日付け)























◎文部省の海外留学生・・・・・一昨日左の数十名を海外留学生に任命せり。
、、、△英語(二年)英 夏目金之助、、、△ピアノ及作曲(三年)独 滝廉太郎、、、」

『読売新聞』(明治33年6月14日付け)

























◎夏目金之助に與ふる書 覆面論士・・・・・」

『読売新聞』(明治37年2月27日付け)



























◎日曜談叢・・・・・▲夏目漱石氏の小説『三四郎』は題を氏の宅の近辺にある榎町の魚三と云う魚屋の主人の三四郎から取ったものだ。尚近辺に理学博士の田中三四郎氏など居るから面白い。」

『読売新聞』(明治41年9月13日付け)























◎文壇はなしだね・・・・・夏目漱石氏を訪ふた。入口の格子戸に雨晒しの引切れた紙片ながら「木曜日の外面会謝絶」の文字だけは読める。こりゃ了った知らぬ事とて。が唯帰りもつまらないし、と図太く玄関に立って謁を求めた。前丈だから坊主の腰衣でもあるまいが、まあそんな風に読める代物を引き纏ふて出て来られて、御用は何ですとは、さて簡単なもの。見ては憎め相もない仙気に充ちた主人である。」

『読売新聞』(明治41年11月29日付け)






















◎日曜談叢
・・・・・或る日の事だ。夏目漱石氏が上田閔敏氏を訪問して我国現時の文壇に関して様々の話をあった末に、国木田独歩と云う人はまるで神様のような人ですね。僕が一寸其の作物が拵えものだと云ったら、盛んに攻撃された。紅蓮洞と云う人も会ってみたら私と気の合いそうな人だが、然しああ私を攻撃する処を見ると私と云うものが個人的に嫌いなんだろう。」

『読売新聞』(明治42年2月7日付け)








◎看守上がりの大賊・・・・・牛込区下戸塚町一五七鹿児島市池之上四八吉岡敬吉(三十二)は数年前本郷生まれの鈴木ラン(三十四)と夫婦になり一昨年十月迄市ヶ谷監獄署看守を奉職し居りしが、大の嫉妬家にて宿直などでランに留守させるが気遣わしく且つ薄給ではランに帯の一筋も買うては遣られず、遂に悪心を起して昨年十二月十日牛込弁天町七夏目漱石氏方にて丸帯七本二百円を窃取せる外十数か所にて約三十円余の物品を窃取せる事発覚して八日逮捕されたるが、同時にランも拘引の上目下取調べ中なり。」

『読売新聞』(明治42年10月11日付け)
















◎漱石氏の博士辞退
・・・・・」

『読売新聞』(明治44年2月24日付け)







◎よみうり抄・・・・・夏目漱石氏は過日来関西旅行中なりしが、此の程大阪にて宿病再発し入院中なる由。但し、去年の修善寺の如き事は無論なかるべしと。」

『読売新聞』(明治44年8月29日付け)





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