大隈重信



明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

    
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 同夫人     同母堂    大隈伯爵





















伊東公と大隈公























大隈重信
























向って右から二人目が大隈重信
















前列中央が大隈重信






























































◎大隈公爵逝去/今暁四時半昏睡に陥り些の苦痛もなく永眠す・・・・・冷たき?の一夜を稲田博士を初め各医師、及び綾子夫人、信常氏夫妻、長女玖満子刀自、武富、三枝、市島、塩澤、町田氏等の近親知己に護られながら十二畳の其の病室に百余日にわたる病躯を横たえた大隈侯は、周到な国手の手当、熱情籠れる家族等が看護も其の効なく十日午前四時三十分全くの昏睡状態に陥り、終にそのまま眠れる如く逝去した。夜来の?雨何時しかやんで深い霜に覆われた早稲田邸の静寂は午前五時半、当直の稲田博士が先ずけたたましい自動車の爆音を残して退出した頃からこの世界的偉人の終焉は電波の如くそれからそれえと伝えられた。邸内はけたたましい電話の鈴、あたふたと立ち騒ぐ足の音、かかる中に正六時加藤高明子が自動車で駆けつけ『どうもいけないらしい、未だ締切れじゃあるまいが・・・』と急ぎ込んだ片言を残して大玄関から飛び込む、続いて堀内中将が剣覇を握って凍った道を駆け歩いて来る、江木翼氏と鍋島侯はいづれも綱曳きの腕車を急ぎ立て、内玄関から奥に転がり込む。河野、島田、尾崎ー老侯が臨終の席に列なるべき人達は後から後からと馳せ着ける。靄は拭われた。邸内の木々の梢に凍結した氷柱の玉は折柄の旭光に映発して早稲田侯の逝く暁に相応しい光景を描いて居る。
◎従一位宣下/菊花章頸飾加授・・・・・大隈侯病気危篤の報天聴に達するや侯が維新当時から五十余年一日の如く邦家の為に尽した勲労を思し召され十日特旨を以って左の通り従一位宣下並びに菊花章頸飾加授の御沙汰があった。
正二位大勲位侯爵
叙従一位(特旨を以って位一級被進)
授菊花章頸飾
大隈重信
◎世界的の政治化/内閣総理大臣・高橋是清子談・・・・・吾輩が大隈さんに会ったのは明治二十一年。秘露の銀鉱をヘーレン(大統領パトローの妹か姪を妻とせるドイツ人)なるものと日本の資本家とが合弁で経営する事になり吾輩が日本側の代表に推されて赴く事になったので当時外務大臣であった大隈さんを訪問してこの会社の成り立った経過を話したのが最初であった。其の時に大隈さんは吾輩が日本側の代表に推された経過を聴いてから『それはサゾ迷惑なことだろう。殊に秘露は日本の条約国でもなし(奴隷問題で国交断絶中)公使館も無ければ領事も無い。お前独りで行くのであるから公使であり領事であり又会社の社長という訳で骨が折れるだろう。マア国家の為にシッカリ遣れ』と激励された。其の後吾輩は日本銀行に入ったのでしばしば大隈さんに招かれ外国人が来た時などはキット招かれて斯様な会合の席上では親しく大隈さんに会ったのであるが政治上の話は少しも為したことが無かった。次いで吾輩は政友会に入り中橋君が最初金澤から立候補をした時応接に出かけ其の帰りに汽車に乗ろうとすると同じ時刻に大隈さんは亦横山氏応援のために金澤に着いたので停車場で?度会ったから『私の演説をした後をアナタは又大いにやられることだろう』というと『イヤお互いにやらなけりゃいけない。大いにやり給へ』と談笑の間に袖を分ったがその間ごうも反対党だというような感じがしなかった。後で聴くと演説会場で『高橋は淡白ないい男だ』と言って褒められたという事だ。政治問題で大隈さんに会ったのは大正三年ドイツに対して最後通牒を発する少し前で、其の時は大岡君と二人政友会を代表してこの官邸に(総理大臣官邸)訪問した。直ぐ会われたので『世上の噂ではこの度ドイツに対して最後通牒を送るという事であるが、それはいかなる目的からなのか』と訊ねると大隈さんは『?州湾はドイツから引き渡されても、あれは支那に還付してやるので日本は何も物質的の収穫はないのだ。唯国威を宣揚し国の地位を向上させる為だ。幸いに君達が剰余金を沢山残して(山本内閣の時吾輩は大蔵大臣で行政整理をやった其の剰余金があった)行ってくれた千五百万円もあればよいのだから』との事であったから吾輩は重ねて『その目的ならば外交談判で解決が出来そうなものと思う。要するに東洋の平和を脅威されるのが日本として黙過出来ないのであるからドイツに武装を解除させ又交戦国一般に軍艦を東洋に奇?さぬようにすればよいのではないか』と言った所大隈さんも『それも考ふべき事だ。外交談判で行くか其の他の手段で行くかまだ決していない。今各大臣が集まったところだからこれから相談をする処だ』というのでそれきりで辞去したが政治談をしたのは之が最初であり又最後であった。吾輩が大隈さんを知っているのはこの位のものであるが尚切実に考えた事は日露戦争当時吾輩はロンドンにいたが大隈さんの言われた事は非常に英国に響きが善かった。それは大隈さんが常に在野党で居られたが為もある。英国では内閣が瓦解すると在野党の首領が内閣を組織するからこれ等の関係からも在野党の首領として知られていた大隈さんの言われたことが反響があったのでもあるが更に看過出来ない原因は大隈さんが外国人に対してはよく努められるので日本に来て大隈さんに会わなかったり大隈さんの庭をも見ないという事は非常に恥ずべきことのようになっているのである。之がどのくらい日本の為に成ったか日本を外国に紹介するにどれ程力があったか知れないと思う。斯く大隈さんは外国に善く知られているから従って其の言うことも注意を払われているのである。軍人などで一時的には外国にも名を謳われたものもあるが大隈さんの如く常時外国に強い印象を与えている政治家は無いのであって今日のように日本が五大国となり三大国となるというように地位を高めて来たのは一面大隈さんのような世界的の政治家があって常に国家奉仕の念を忘れられないということも力になっている事と信ずるのである。日本の地位が向上するに従って国際関係はいよいよ複雑多端となり世界的政治家に?つもの益々多きを加ふる秋において大隈さんを永久に失うというのは之れを国家の上から言えば大なる損失であり私情としては亦痛惜に禁えない次第である。仮令臥床されたままでも大隈さんの存在される事は国の光であるのに我々のこの希望が空しく成った。重ねがさね残念である。大隈さんについてもう一つ感想を述べると大隈さんは何等蟠りの無い人で一度面接すると婦人でも好感を持つようになる。又其の博識にはしばしば一驚したのであるが先年タゴールが来た時日印協会で(大隈さんは総裁)招待会を催した席上吾輩が『アナタは世界の全般についての知識を持っておられるが外国へ行かれた訳でもないのに』というと、大隈さんは言下に『それは早稲田学園のためだ。早稲田の卒業生は今や世界の果てまで撒布されている。それらから或は帰朝土産に或は又書信で知るのだ』と言われた。ソコデ吾輩も『なるほど』と?いたのであった。
◎外交上の打撃/内田外相談・・・・・老侯の長逝は、政府として又外交当局として非常な打撃である。自分は世辞に云う訳ではないが老侯は朝にありては勿論であるが野にありても常に対外問題に心を尽くし平和に円満にと絶大な貢献をされた。体外問題については反対派のどに対して随分辛辣な手腕を振るわれた事もあるが事対外問題になると絶えず外人など侯を訪問して当局の失敗を語って侯が当然攻撃すべしと予期して水を向ける様な事があっても侯は?くも悪く云うたり攻撃する様な事はなく日本の立場や色々の関係を?々と説くという風で之までも老侯の努力説明により平和に円満に解決した事は度々あった。
◎浅草の観音を失った感/大石正己氏談・・・・・大隈の死は実に惜しい事だ。日本に大隈侯を失ったのはちょうど東京市から浅草公園と観音を取り払ったようなもので実に寂寥の感に堪えない。浅草の観音には毎日参詣する老若男女何万人の中其の大部分は浅草見物の為で本当の信心から来る者は其の千分の一であろう。而も之とて何を拝んで帰るものか頗る怪しいものである。之と同様内外人の多くが大隈侯を訪問して其の風貌に接し談論を聴く者の中はたして幾人が真に隈侯の面目と精神を諒解して帰るか是れ亦頗る疑問である。侯の真面目は博覧博識にして常識に富んだ点である。横に広くして深さが浅い。しかし何れの場所に臨んでも臨機応変で其の智識は常に専門家を驚かして居る。兎に角当面の人々を満足せしめて帰す其の点はなかなか偉いものである。ちょうどロンドンタイムスの社長ノースクリフ卿に似かよった点がある。ノ卿が渡米した時来訪の人々に握手する時間で凡ての問題の解答をあたえるといって政治、経済、社会問題、其の他軍事問題と如何なる問題でも即答して知らざる事なしと云う態度で而も?く明答であったのでスッカリ米人は畏敬したという話を聞いて居るが、隈侯も如何なる問題でも知らざる点なしと云うのである。両氏とも浅い深いはあるが共通の点があるように見受けられる。しかし隈侯が逝いて後社会に何物を残すか少し残酷だが政治家としての侯を批評して見よう。一体隈侯には大経綸大抱負がなかった。唯場面を賑わし当面を作る人で国家百年の長計をたて国是をたつる人ではない。この意味において今後十年を立たない内に忘れられはしないかと思う。隈侯が遺した事業に二つある。其の一つは改進党の組織で一つは早稲田大学の創設である。改進党を組織した当時の侯は薩長官僚の排斥を受けたのであるが毅然として之に楯突き唯神と陛下以外には何物も畏るべきものなしと云う意気込みで勇往邁進したものである。当時我輩は板垣を援けて自由党を組織した後であったが最初われわれと隈侯とは反対の立場にあったのであるが兎に角官僚主義即ち軍閥主義を排して文治主義を大いに提唱し来たものである。然るに今日の情勢はどうだ。軍国主義は世界的に敗北して嘗て明治十四五年当時隈侯が提唱した文治主義に移って来たではないか。隈侯が自信して居た百二十五歳まで生きながらへて居れば完全な文治政治が見られるのであろうが、しかし今日逝いたからと云うて既に軍国主義に勝って文治国を形成しかかって来たのであるから何等思い残すこともあるまい。我々が自由党を組織したのは確か明治十三年で其の翌年改進党が生まれたと記憶する。我々の自由党は壮士の集まりであったが改進党は全く之と反対に社会の中流知識階級を集めて組織したものである。この二大政党があったがため藩閥を倒し軍国主義と戦って今日漸く政党政治の実現を為し得られたのである。我輩が隈侯と最初会ったのは確か早稲田大学を創立した当時であったと思う。其の当時は教員も学生も極めて少数で、時々隈侯の邸内で食事を共にしたものである。我輩の最も好きな人物に後藤象二郎、福沢諭吉両君とそれから隈侯がある。この三君とも他人の悪口や誹謗を放たない人物で後藤の如きも一日平均八十名位の人数に会っていた。隈侯と同じように来る客悉くに食膳を出したものである。隈侯は大名生活を送り通したというが我輩から見ればモットウント金を何故費はなかったと思うのである。隈侯の死後五百万円は確かに隈侯家に遺るであろう。遺したって仕方がない。大いに生前ひようい尽して真に世界的の大名生活華やかな生活をすればよかったのにと思う。隈侯逝って隈侯なしで今後はあんなに偉大な人物は日本に出ないだろう。あの楽天家の隈侯を泣かした事がある。ちょうど明治二十九年松方内閣成した当時である。我々改進自由党は聯合して時の官僚内閣黒田清隆を首班とする内閣を叩き倒した事がある。其の後に生まれたのが松方内閣であったが隈侯と松方侯との関係は明治初年当時隈侯の大蔵卿時代にその下に松方は働いていた関係で隈侯から見れば松方はズット後輩であったので松方が大命を拝し大隈侯を外務大臣としたのであるが大隈は頑として受けない。侯は病気で自邸に引きこもって出てこない。そこで我輩と犬養と尾崎三人が大侯隈を訪れて何故出ないか既に我々は黒田内閣をたおした以上当然責任を重んずる以上之に代わらねばならない。若し侯にして起こたない以上我々三人は今後侯とは別れてしまうと談じ込んだものである。侯は気も進まないのであったが病床で落涙して、それでは引き受けようと快諾した様なこともあった。兎に角誰に対してもあんな愉快な人物はない。反対党でも皆な侯に好意を持たない人はないのである。
◎隈侯の死と憲政会/背景を失った損失は免れぬ・・・・・大正五年秋冠をかけて以来の大隈侯は早稲田の自邸に引き篭もり『政治を生命とする』の立場より侯一流の政治教育社会教育を行い所謂輿論の振興に努めていたから政治上においても単に憲政会一派の面倒を見ると言はんよりは寧ろ国民全体の教養に余生を捧げていたと見るが至当であろう。換言すれば晩年の隈侯は実際政治の局面からは全然隠居の身となって憲政会に対しても極めて軽い意味の忠言者たるに過ぎなかったと言ってよいが併し同党にとっては大先輩であり且つ之が背景となって隠然重きをなしていた巨頭を失うのであるから無形的には一大損失たるを免れぬ。侯は極端なる門戸開放主義者であったから各種の訪問客が絶えた事なく一般政客に対しても比較的親疎の別がなかったようであるが就中往訪頻繁なるものに向っては談論風発の間之を啓発し督励していたので党内数名の親近者並びに早稲田系党員の追慕の情は想察するに難くない。更に党全体としても漸く民論の勃興せんとする気運に乗じて大いに党勢を張らんとするに際し民衆政治家を以って自認する隈侯薨去に会ったのであるから間接に影響少しとせぬ。又侯は元老として兎に角外様大名の取扱いを受けておったにせよ一朝政変に際会して其の無言の発言権が他の元老若しくは憲政会以外の勢力に対して相当働きを有したであろうとは必ずしも無稽の考察ではあるまい。隈侯再び起たずとの報に接し党員が憂愁の色あるは一面において無理もない。しかし侯の病没が憲政会に与ふる衝動は彼の政友会総裁たりし原氏が不慮の兇刃にたおれた場合と日を同じうして語ることは出来ない。何となれば侯は前述の如く政治の活舞台より退いて名義上にも実際上にも憲政会の党首となったことはなく、寧ろその乳母役として終始したのであるから。加藤子現に総裁として立党の面目を保持しているのみならず流石百二十五歳翁の呼号も寄る年波に抗する事は不可能で幾度か危篤を報ぜられ遠からず今日あるべきは一般党員に予知せられていたからである。憲政会が何時までも一老人に縋るようでは其の前途も心細い次第であって決して其の志を継ぐ所以でない。同党幹部が隈侯の薨去を悼みつつ其の政局にたいする影響について異口同音に『我が党にとっても直接何等の影響はない』と言っているのは大体において正鵠を得たる観察と評してよかろう。
◎逝ける隈侯/文学博士 三宅雪嶺
・・・・・百二十五歳説を口にしつつ相応に元気で八十五歳まで生きたのが、大隈侯の殆んど全てを現している。侯は理想を描けば随分高く、所謂高遠の理想とすべきであって、それで実行となるや頗る手近い所で安んじ、理想を忘れたかに見える。理想を描くとて、徒に想像を?しくし出放題を言うのでなく、成るべく合理的に考えようとし、唯未だ確定してをらぬを確定したらしく説くので法螺吹きの様に思われるが、普通の法螺とは違い、必ず何か根拠がある。寿命についても、武内宿祢が三百歳であって斯う長命し得ると言わず、動物は成熟期の五倍生き得ると言い、単純な伝説に依らず、科学に依ろうとする。科学で証明されておらず疑問に属するのを平気に明言する所に面白味もあり欠点もある。それでも成熟期の六倍即ち百五十歳の勘定にになるのを採らず、百二十五歳と控えめにするなど努めて確実を期する所がある。単に大きな事を言うのではない。自ら之を説いて自ら斯く生き延び得るとしたが、又は??に説き洒落の意においてしたか、其の辺の明白を欠く所に侯の特色がある。侯は科学の知識を好み、之を理解する能力あるが、研究することが出来ず、早く断定し、それで可能性を認めるのであって、自ら百二十五歳生き得ると考えたこともあろう。本来自身の能力の優っておるのを知り、普通以上の事を為すに堪え、寿命も或は然うならうとしたろう。後にこそ多少控へ気味になったれ、青年に対し自分が老人で早く死するというが如きを言わず、自分の方が長生きする様に語った。之と云うのも相共に働いて来た人達の中で若いのが沢山死し、壮年と老年と何れが早く死ぬか分らぬのを経験したに因る。明治維新以来政府における同僚でも、その後改進党を造った時の党員でも、若いのが早く死し、死ななくても衰えている。届出ての改進党員名簿百余名中、大部分は過去帳に入って居る。そこで若い者を見ても自分より長生きすると思わず、長生きするように云いもせず、我輩の方が長生きすると云うたりする。可能性あることは敢えて試みさえせば為し得るものと信じて居る。旧日本新聞社長陸?南が死んだ時、「陸は意気地ないでないか、死んだでないか」と云うた。幾分か気力で生き延び得ると心得た所がある。科学で証明されていなくても百二十五歳の可能性を認めると共に自分で然うなれると思うのであって、そこが科学家でなく、早合点して定めてしまう癖がある。自ら百二十五歳生きるように云う時、人が真面目に言うのでないと思うか、侯は之を洒落の様に取り扱はず、何処までも言い張るを憚らぬ。それならば、百二十五歳生きる積もりであったかと云うに、そうでなく、其処は頗る諦めが良く、人は何時死ぬか知れぬと定めて居り、生死に対して少しの未練がない。これ亦経験上人が何時死ぬか知れぬのを知ったからであり、時として自分の体の苦情を言い肺病ということだと言ふたりし、人が百二十五歳はどうかと云えば単に笑うに止まる。要するに百二十五歳の可能性があり、之を試みようとの念があると同時、生死の測り難いのを知り、明日もわからぬとし、何時死のうと平気であり、近頃特に諦めたらしい。それでも、特別に老?せず八十五歳まで生きたのは生存力の?なのを示している。百二十五歳説を口にしたがため、何でも口ほどでないと言われるか、寿命でも多くの人の真似の出来ぬだけのことがある。普通優っておりながら口に唱える所が更に大きいのでいい加減のことを言うように思われるが、いい加減でなく、自分で大抵それでよかろうと認める所を宣いと云うのであった、「であろう」を「である」と明言する所に欠点がある。「であろう」と言うべき所をば、然して居れず、直ぐ「である」と断言してしまう。「であろう」では面白味が少なく、そういう仮説でも幾分も説く者はあり、それを「である」と断言して疑いを容れぬので、人の注意を促すに足る。「であろう」ならば学術家であり「である」を断言する所で政治家となり、普通の政治家よりも輪郭が大きく、締まりがつかず、それで兎角面倒が起こり易い。

◎今日の問題・・・・・たとへ百二十五歳まで生き延びても、死ぬる時は矢張り惜しまれる。人は惜しまれる時に死ぬべきだというが、ほんとの事は何時も惜しまれる人でありたい。早稲田侯の如きは確かに其の一人だ。」

『東京朝日新聞』(大正11年1月11日付け)






































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