吉野作造




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に変えようとした靴職人がいた!

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◎吉野博士逝く/昨夜湘南の病院で・・・・・法学博士吉野作造氏は十八日午後九時三十分逗子町湘南サナトリウムにおいて逝去した。行年五十六。同氏は持病のため二月中旬東京本所?育会病院に入院したが病勢はかばかしくなく去る五日サナトリウムに移ったもので十七日夜来心臓衰弱し重態となり、たまの夫人及び令息、令嬢、女婿達が駆けつけ枕頭に看護手当て中であったが十八日午後二時全く危篤に陥ったもので、この報に生前の知己神田帝大教授、米田本社顧問、島中雄三、尾佐竹猛、真山青果、牧野英一、佐々弘雄氏等が駆けつけ混雑を呈した。遺骸は同夜十一時サナトリウムから寝台自動車で東京駒込神明町三二七の本邸に移し二十一日午後一時から青山学院でキリスト教式で葬儀を営むことになった。
◎民本主義大先覚/華々しい生涯・・・・・吉野作造氏は明治十一年一月二十九日宮城県志田郡古川町に生まれ同三十七年東京帝国大学法科大学政治科を卒業。小学校から大学を出るまで首席で通した。政治学研究のため独英米に留学し、その明晰な頭脳を以って新思想を吸収して大正二年帰朝、同三年帝大法科の教授となり、同四年法学博士の学位を受けた。博士は学生時代から早くもデモクラシーを主張していたので国粋派の学者から「将来吉野を教授にしてはならぬ」といわれた程であったが、帰朝以来大いに筆陣を張り、大正四年から八年にわたる間、民本主義を以って日本の思想界を風びし、大学においては博士の講義を聴くために学生が朝六時から席を争うという白熱的人気であった。「吉野は危険思想で国体を破壊する」と見る浪人会では博士に立会演説会を申し込み、それが大正七年十一月下旬神田?明クラブに開かれ、聴衆は電車通りまで溢れた。この頃が博士の黄金時代で、この立会演説会が機縁になって、博士と福田徳三博士とを中心に、民本主義を基調とする「黎明会」が生まれ思想的先駆者をもって任じ大いに戦った。相次いで、これを母体として帝大では、博士を中心に「新人会」が創立され、また学生運動の先駆となりこれから幾多の社会運動者新思想家が各方面に送り出されるに至った。軍部攻撃の論文がたたって、大正十三年教授を辞して著?に力め、又一時本社編?顧問ともなった。尚安部磯雄、堀江?一両氏と共に社会民衆党の産婆役となり、直接政治方面にも働いたが、最近は健康を害して活動意に任せぬようであった。
◎主義の一貫に感服(安部磯雄氏談)・・・・・私とは三十年来の交際でこれというお話もありませんが、ただ氏がデモクラシーに終始せられたというこのには全く感服のほかありません。女婿にあたる赤松克麿君が私達とたもとを別って後もなお私達の肩をもってくれました。昨年の社民、大衆両党合同大会の日にもわざわざ出席くださった程で、終生氏が完全にデモクラシーに終始せられたことに感服するのみです。」

『東京朝日新聞』(昭和8年3月19日付け)


















































































































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