鈴木文治




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!

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「◎鈴木文治氏・・・・・宮城県から立候補した社会党鈴木文治氏は十二日仙台市弓ノ町???一氏方で心臓??で死去、享年六十二、宮城県栗原郡金成村出身、大正元年友愛会設立以来わが国労働運動に活躍した。(仙台発)」

『東京朝日新聞』(昭和21年3月14日付け)


















「◎労働代表鈴木文治氏・・・・・労働代表に当選した鈴木文治氏は宮城県栗原郡金成村に生まれ、明治四十一年東大政治科を卒業して東京朝日新聞社社会部に入社した。在学中から特に労働問題について研究し明治四十四年本社を退くと共に専ら労働者問題の研究に耽った。大正元年八月一日川崎マツダランプ職工十五名と共に労働組合友愛会を組織し、その会長となったのが同氏の労働運動の出発点である。大正十年友愛会の名が日本労働総同盟と変わった時、名誉会長という名義になったが、実際的には常に会に関係し、本年の大会で再会長となった。大正十一年日本農民組合の組織せらるるや関東同盟会会長となり今日に至っている。本年四十才。」

『東京朝日新聞』(大正13年4月5日付け)
















「◎鈴木文治氏出発・・・・・ジュネーブで開かれる第七回国際労働総会に労働代表として参列する日本労働同盟会長鈴木文治氏は二十六日午後七時東京駅発神戸行急行列車で渡欧の途についた。駅ホームには関東地方評議員会を除いた五十余の各労働組合員が組合旗を押し立てて詰めかけ、紡績女工組合を代表した四五十名の若い娘連も交じって労働歌を合唱し万歳を叫ぶなどすこぶる盛大な見送りだった。尚随員上條愛一氏は次の七時二十分の汽車で出発した。」

『東京朝日新聞』(大正14年3月27日付け)



















「◎八人分を代表した文治君のえん尾服(無産六代議士は廊下で奉迎・普選気分の開院式)・・・・・無産党議員にとって開院式当日の服装問題は、召集前からの悩みであった。安部磯雄氏だけは?門クラブの押川清君が父君方義氏の服装をそのままそっくり恩師に贈ったので解決したが、シルクハットは大きくて冠れず、鈴木文治氏に贈った帽子だけ新調におよんだが、あいにくの風邪で二十二日の開院式にさっそうたる安部代議士の姿は見られなかった。無産党八名を代表した形で開院式に参列したのは鈴木文治氏だけだった。鈴木代議士は頭は安部氏からの寄贈で出来たが、肝腎のえん尾服がない。そこで鈴木氏の友人相寄って鈴木代議士えん尾服組合を組織した結果出来上がったのが金百五十円也の一着。どうやら格好はジグス張り?毎日電車で登院する鈴木氏は二十三日は特に円タクを雇って威風堂々と登院した。残る六名西尾、亀井、浅原、山本、水谷、河上諸氏は、午前十一時頃一同警務課に出頭して宮城守衛長に会見し特に特に正門玄関に続いた廊下で、陛下をお迎えする事を許して頂きたいと懇願した結果、守衛長もこれを許したので六代議士はさん然と輝く金ピカや大礼服の中に交じってお出迎え申しあげた。」

『東京朝日新聞』(昭和3年4月24日付け)