日本で初めて労働組合をつくった男


明治時代の心やさしい人々




[◎優しき心・・・・・横浜石川中村に住むキリスト信者の井上たつ(十八)という婦人は一昨日他出した留守に泥棒に入られ衣類其の他の品々を盗み取られた故すぐ其の旨を届け置くと、同日取り押さえられた東京浅草南元町木村清吉(二十一)が即ちこの井上方へ押し入った曲者であるとの旨を達せられると、婦人は取り急いで横浜警察署に行き、犯人清吉に面会を求め其の許しを受けて清吉に向かい、静かに是までの生い立ちを尋ねキリストの教義により勧懲の意を示し僻める心を矯直す事を諄々説諭せしに、さすがの犯人も悟る処ありしにや、一言の返す辞なく涙を流して聴き居たりとぞ。婦人は説き終わって懐中より聖書を出し清吉に与えて立ち去りしよし。これぞ罪を悪みて人を悪まぬ意なれと、傍に見ていた掛りの人々何れも婦人の優しき心に感じあへりと。]

『やまと新聞』(明治24年9月25日付け)






[◎稀代の孝子・・・・・鳥取県西伯郡境町呉服商桃原捨市(四十)はリューマチに罹り居る実母お兼(六十六)に三十年間一日の如く孝養を尽くし、近頃は自分が考案して製造せる車に老母を乗せ、人手を借らず自ら其の車をひいて花見又は仏参等に連れ行き、ひたすら母の心を慰むるに余念なしとは実に美しき話ならずや。]

『万朝報』(明治39年7月8日付け)






[◎貧民の友・・・・・金澤に小野太三郎氏あり。彼は社会主義を事実上に実行せる篤志者なり。]

『国民新聞』(明治28年9月20日付け)











[◎職工にもち米を恵む・・・・・市内呉服町一丁目魚住伊吉氏の煙草製造所は目下百余名の職工を有しをるが、職工の中には随分赤貧者多く、衣食にさへ苦しめば況して歳暮の餅つきなど出来べき訳なく哀れなる有様なるにぞ、昨年伊吉氏は二十余名の赤貧職工に若干のもち米を恵みたりし例により、本年も又た二十八名の職工へもち米五合づつ施与したりといふ。奇特の心がけにこそ。]

『熊本新聞』(明治25年12月23日付け)











[◎貧氏学校に一千円を寄付・・・・・「一番むずかしい事業」と題して東京における貧民教育の現状を説明し批評せし我社の記事は幸いにして社会の注目する所となり篤志なる貧民教育家は頗る深き同情を以って労を謝せらるるの機会となりぬ。この傾向中の大なる現象として吾人が今読者に報道することを喜ぶは芝区久保町通り桜田本郷町十一番地砂糖問屋能州屋保井久七(五十七)なる人が胃がんのために重体に陥り死期すでに迫るに臨み、その資産の中より一千円を割きて、私立山伏町尋常小学校に七百円を寄付し、同じく万年町の共同夜間尋常小学校に三百円を寄付すべく興業貯蓄銀行の手形を我社に託して送達の手続き依頼し来りたることなり。吾人は保井氏がこの称賛に値する美挙と其の微々たる小資本より数十万の財産を生み出だすに至りたる伝記とを対照して今も日本にも亦山師、投機師、詐欺師、半泥棒の外、宗教の如く神聖なる金儲け術と清潔に平和に温暖に高尚なる富豪の家庭あるを世界に広告すべく光栄なる任務を発見し得たり。。]

『万朝報』(明治36年11月2日付け)






[◎奇特なる理髪師・・・・・韓国平城に出稼ぎ中なる愛媛県八幡浜町生まれ白石勝太郎(四十四)は身分の卑きに似ず奉公の志厚く、平城在留の兵士及び兵端病院の収容者等に能ふ限り無料散髪をなしつつありと。奇特といふべし。]

『万朝報』(明治38年8月28日付け)






[◎理髪職の奇特・・・・・本所区北部の理髪組合頭取小林新太郎、秋元徳太郎の両人発起となり無代にて同区若宮町の共済慈善会に養育され居る貧民の理髪をなす事を初め、毎月の休日十七日をばこの日とあてたり。又牛込区肴町の同業者佐藤益三郎が発起となり巣鴨養育院の貧民の理髪をばこれも無代にて月三回づつ刈り込むことを同業者に相談し共に昨日より初む。]

『万朝報』(明治33年12月18日付け)






[◎奇特な差配人・・・・・本所区長岡町九十九番地の松浦勘四郎というは、以前かなりの筆職人なりしが、近年長病にかかりて職業もされぬ始末に、追々貧困に陥り、今はその日の活計も立てかねるを、女房のおていと次男定吉とが日々わづかづつ得る手内職の賃金にてかつかつ家内四五人糊口を凌ぎ居けるに、幸先悪しき時は詮なきものにて、定吉は昨年十一月コレラ病にて死去し、続いておていも病死しければ、跡には長男平次郎と勘四郎の二人きりなれど、この又長男平次郎はいつのころよりか発狂してとても暮らしを助けるなどのことはかなわざれば、勘四郎の気苦労一方ならず、今は早や飢え死にもせん有様となりしを、世には鬼もなきものとて、近隣のたれかれ之を憐れみ、また同地の差配人藤田清五郎氏は奇特にも日々食物を与えて病苦を慰め、且つ数月間の家賃は己より地主に立て換え、剰さへ其の筋に向かって勘四郎は養育院、平次郎は癲狂院入りを出願したるに、其の筋にても清五郎の奇特を賞賛し、その乞いを容れて両人とも入院したりという。]

『読売新聞』(明治24年3月13日付け)






[◎正直の車夫・・・・・本所横綱町一丁目十一番地の人力車挽き、水川福太郎(三十八才)が一昨日午前十一時ごろ、本所二の橋より浅草まで客を乗せて行きし帰り途、両国柳橋まで来ると、何か光々しきものが道に落ちてあるを認め、何心なく傍へ行って見れば、金側龍頭巻の時計が泥の中に半分埋まり居るにぞ驚いて拾い取り、すぐに猿屋町警察署へ届け出でしに、その落とし主は日本橋区富澤町の第四十一銀行支配人奥田某と知れ、早速呼び出して時計を渡しけるに、奥田はその無事に戻りしを喜び、謝礼として金十円を福太郎に遣わしけるを、これは過分なり、こんなお礼をいただこうとてお届けはいたしませぬ、と辞退するを、警官共々強いての勧めに、福太郎大喜びにて、右の金を押しいただき、厚く礼を述べて帰りしと。心術奇特にこそ。]

『読売新聞』(明治24年3月14日付け)






[◎奇特の老僧・・・・・去六日古びたる綿入を重ね着したる上に木欄色のはげたる法衣を着し、齢は六十余と見受けられる病疲たる老僧養育院に入り来り。若干の菓子を小児共に与えられたしとて指出し、且つ幹事に面会して呼吸も絶ゆげに話す様拙僧は浅草区南元町なる浄土宗の寺院法林寺と申す貧寺に年久しく住める貧僧なるが、性来愚鈍にして釈尊の流れを汲みながら何一つ悟道したることもなく、身に法衣をまといながら人を化導すべき職を尽くす能はず、徒らに財施を受け衣食する其の罪の深かければ、弥陀の本願深しと申しながら来世こそ恐ろしと存する儘、予て衣食の料を減じて少しづつ貯えたる金子あり。今春来肺病にかかりたれば最早や明日とも知れぬ寿命ゆえ、いささかながらも貴院に寄付して窮民救助の万分の一をも補いたいと存ずるまま参りたり。宜しき様計らいたまわれとて、金六十円を出し、各室を巡覧して帰寺せしという。尚ほ他にて聞く所によれば、この老和尚は貧寺に住し徒弟もなく唯老僕と二人暮しにて、この近傍にては卑?家なりとの評判なるそうなれども、一昨年来両親の菩提のためとて我が故郷なる寺院に田畑梵鐘を寄付し、その他各所へ寄付したる者は五百円以上に及べりという。仏法末世の時節に珍しき僧というべし。]

『東京日日新聞』(明治24年8月11日付け)









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