古河市兵衛






明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!

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◎古河市兵衛氏逝く・・・・・足尾銅山?主古河市兵衛氏は去る二月下旬より胃癌に罹りて病?に就きドクトル長與?吉氏の主治にて専ら静養中なりしが、胃潰瘍を併発し三月中旬よりやや重体に陥り本月二日に至りて病漸く革まり薬石効なく一昨五日午後二時三十分を以てついに遠逝せり。享年七十二、葬儀は明八日午後正一時築地二丁目十番地自宅出棺、麻布山本町善福寺において仏式執行、生花放鳥等其の他供物贈与の儀は一切謝絶するという。古河市兵衛氏は西京の人、天保三年其の郷里岡崎に生まる。幼名巳之助、父を木村長右衛門という。数世醸酒を業とす。すでにして家道衰頽密かに豆腐をひきいで以て家計を営むに至る。氏幼時天秤をかついで近村に行商し拮据?勉数年一日の如し。心?に以為く斯業を以てこの生を終わるべからず。須らく天下の商たるべしとはじめて十八歳単身走って奥州に下る。かつて自ら貯蓄せし所の金三分二朱あり。之を以てわずかに其の旅費にあてしという。氏の盛岡に至るや氏の伯父にして当時南部家の勘定方たる木村利助氏の許に寄食す。後大阪の豪商渋池氏同地に支店を置くに際し氏之につかえて専ら糸業に従事し居ること幾ばくもなくして主家其の支店を廃するに及び氏も亦退く。超えて二十二歳の時江州高島郡の産にして古河太郎左衛門といえる人小野組糸店にあり。もと木村氏と友とし善し其の福島に在るを聞き、行ってこれにつかえ其の業を助く。太郎左衛門資性厳正篤実氏を薫陶する所多し。而して氏の凡庸にあらざるを見、志を木村氏に告げ?て養子となさんとす。木村氏其の懇篤の状に感じ頻に之を氏に勧む。氏辞すれども訊かれずついに其の姓古河を号し名を市兵衛と改む。市兵衛は太郎左衛門氏の親族にして小野組手代某の名なりという。時に年二十有四。氏是より小野組支店に入り養父と共に糸業に従事し利潤を得ることすくなからず。幾ばくもなくして養父病に罹り身体自由ならず氏其の業務を承け専ら之を担任す。毎歳一度精算のため京都に上り主人に接ししばしば説くに当時の大勢を以て外国貿易の一日も猶予すべからざることを勧告す。然れども主人之を容れず氏密かに福島より横浜に到り大いに内外商人と其の利を格すること数回かつて商機を誤らず得益常に元資に倍す。主人陽に之を知らざるものの如くし而して氏の才幹衆に秀でかつ其の行い甚だ篤きに感ぜり。明治元年養父竟に起こたず小野店主氏を抜擢して糸店の長となし之を管理せしむ。即ち其の商店を京都より東京に移し支店を横浜に置き生糸米穀の両業に従事す。氏常に本国生糸の不完全なるを憂い明治三年イタリア人ミエール氏を招聘し始めて築地に製糸機械場を建設す。地ようやく開け人家?密なるに従い大いに不便を感ずるに至り之を奥州二本松に移し、ついで信州諏訪松本地方に数個の機械場を設置し専ら蚕業の改良を謀れり。ここにおいて人争うて之を摸造しほとんど各地に伝播するに至れり。是より先き前橋藩士速水某亦ミエール氏を傭聘し同地に製糸機械場を建設せり。廃藩のこと興るに及び政府之を小野組に授く。小野組氏をして之を管理せしむ。蓋し西洋の製糸機械を本国に模造せしは実に氏を以て嚆矢とす。而して亦製糸事業の進歩今日の如くに至りたるは氏?りて大いに力あり。明治五年蚕種大いに低落し加ふるに比年外商の抑制する所となり内国の商?敢えて売買に手を下すものなし。この時に当たり氏?に欧州の商勢を探知し急に人を蚕地に派し専ら蚕紙を?はしむ。堆積山の如く人呼んで狂はせりとす。然れども氏敢えて顧みず遠く人をイタリアに遣わし之が直輸を計りしに先見違はず数月ならずして巨万の利を博するに至れり。是より先蚕種の直輸を海外に試みしもの其の数多しといえども概ね失敗倒産。かつて其の目的を達せしものあるを聞かず。明治七年小野組?解の時に当たり氏しばしば再興を主張し奔走斡旋大いに主家のために尽策する所ありしといえども竟に衆の容るる所とならず氏長歎大息以為く大廈の将に傾かんとするや一木のよく支ふる所に非ずと死に至るまで談の此の事に及ぶ毎に旧時を追想して慨然たりき。是より先小野組において諸州に鉱山を開掘し氏に命じて傍ら之を選任せしむ。窮に以為く生糸、米穀の業固より頼むに足らず。筍くも身を立て国家を利せんと欲せば鉱業に若くものなしと小野組?解の後?石の蓄えなく赤貧洗うが如しといえども志望いよいよ堅く勇気かえって旧に倍す。翌八年始めて草倉鉱山を開堀することを得たり。幸いにして産銅日々増殖幾くならずして巨額の利益を得たり。是氏が独立特行今日の大計を成就するの前緒にして実に天?というべし。ついで岩代の八総銅山越後の九十郎畑銅山を始め其の他数山を稼行せしも徒に資金を投ずるに止まり皆効を奏するにあたわずして停む後、足尾、阿仁、院内の如き諸鉱山陸続氏の手に帰する者多し。この間盛衰一ならずといえども慨するに事業漸く進み産額大いに増加せり。是においてか明治十七年本所に熔銅所を建設し精錬の法亦日を追うて進む。明治二十年東京府工芸品共進会に出品して一等賞金牌を得たり。同二十一年足尾銅山のために深川に?炭製造所を設置し専ら同山燃料の改良を計れり。初め氏の鉱業に従事するや非常の熱意と忍耐とにより許多の艱難を排除し幾多の障害を打破し勇往敢行孜々怠らず一山を得るごとに鋭意これが必成を期す。然れども氏の宿望は空しく氏の胸裏に埋没し未だ大いに発揚するの期にいたらず。加之頻年銅価益々低落しほとんど其の止まる所を知らず。且つ当時銅価低落はひとり本国のみならず欧米の諸鉱山亦影響を被り或いは一時営業を停止し或いは全く之を廃絶するものあるに至れり。鉱業者の困難蓋し此の時よりはなはだしきはなし。然るに明治二十年の末に至りフランスに銅商組合なるもの興り全世界の産銅を統一し以て銅価の回復を図り独り其の利を?しうせんとするもののごとし。ここにおいて欧米諸国の鉱業主争うて之と売買の約を結ぶ。翌年果たして銅価俄然暴騰す。適々横浜のジャーデン、マヂソン商会より氏の所有鉱山の産銅三年間の総額を売り渡さんことを勧む。氏も亦見るところありて之を諾す其の額ほとんど二万トンにして之を金額に算すれば実に数百万円の多きに達す。一片の契約書にして巨額このごときに及ぶもの本国未だかつて之あらずという。後幾ばくもなく同組合は俄然として倒産の不幸に遭遇し欧米諸国の鉱業主之がために非常の損失をこうむれり。初め氏のこの契約を結ぶに当たり同組合の永久に維持すべからざるを予知し直接之と締約することを欲せず単にマジソン商会と売買の約を結べり。且つ曰く。予はただマジソン商会を信ずるのみ。その他を知らずと。竟に三年の契約を完うし独り卓然として大勝に制せしは思うに氏の?眼能く商勢を洞見するに非ずんば?んぞ能く此に到らんや。当時氏は銅価昂低の何物たるを意に介せず唯汲汲として産出の増殖を希ふのみ。知人ために謀って曰く。氏の財源を涵養するはまさに此の時に在るべしと。然れども氏ごうも顧みずいわく。予は是より益々多事ならん。、、、或いは技師を欧米に派遣して実地に検討せしめ、或いは英独の学士を招聘して技術の顧問に備え、或いは学生を養成し、その他学校に学会にいやしくも鉱業に関するものは皆之を賛助し採掘冶金の技、土木水利の術、並びに蒸気空気電気水力等之を各般の機械に応用し改良いたらざるところなく、三年の得益挙げて之を鉱業に注入せり。これより氏の事業は長足の大進歩をなし欧米諸国における有名の鉱山と比較するも敢えて遜色なきに至れり。なかんずく、足尾銅山の如き院内鉱山の如き其の規模の大にして且つ偉なる一見人をして?若せしむるに足るものあり。明治二十五年七月勲四等を賜はり同三十三年九月従五位に叙せらるる。今日氏が経営中に属する重なる鉱山は足尾銅山(栃木県内)院内鉱山(秋田県内)阿仁銅山(秋田県内)不老倉銅山(秋田県内)水沢銅山(岩手県内)永松銅山(山形県内)大鳥銅山(山形県内)草倉銅山(新潟県内)久根銅山(静岡県内)勝野炭鉱(福岡県内)下山田炭鉱(福岡県内)ルシン炭鉱(北海道十勝国)等にして総鉱区数六十有九、積数殆ど二千五百万坪に及べり。その他付属の事業として東雲精煉所(秋田県内)本所熔銅所(東京市内)?炭製造所(東京府内)東京販売店(東京市内)門司販売店及び同岩松支店等あり。業に従うもの三万人其の使用する所の原動力七千馬力其の産額を問はば一カ年金二十貫、銀三千貫、銅千六百万斤、石炭四十万両、而して銀は本国産額の二割を占め銅は其の四割以上に達す。もし其れ銅線、骸炭等の如きに至っては其の製造額の少なからざるのみならず品質亦精良を極めたり。第三回内国勧業博覧会の開会に際し特に名誉褒賞を第四回の時におよんでは名誉金牌を授与せらる。明治三十五年冬氏病を得て療養頗る尽くしたるも身体漸く衰弱して竟に起たず。蓋し胃腸潰腸を併せて胃癌を発したるものなり。氏の平生最も親?し死に至るまで敢えて或いは?ることなきものを男爵渋沢栄一氏とす。蓋し小野組以来の知己なりという。小野組?解し氏自ら鉱業を営むに当たり之を慫慂し又之を援助し殆ど到らざる所なきものは実に渋沢氏にして爾来氏は経営の方策資金の融通等一々之を渋沢氏に謀り渋沢氏も亦嘗て之を聴きて喜ばざるはなしという。?子
吉氏は故伯爵陸奥宗光氏の第二子、幼にして古河家に養わる。明治二十年佐渡国金山に赴きつぶさに採鉱冶金の術を実習し翌二十一年実父伯宗光氏に従って米国に留学し益々斯学を研鑚し明治二十六年帰朝す。爾来其の究むる所を以て或いは足尾銅山に試み或いは養父の左右に侍して参?す。三十年古河鉱業事務所の専務理事として諸般業務の統率に任じ養父亦業務をあげて氏に一任し氏の企画其の処を得、養父をして後顧の憂いあらしめずという。年齢三十四今や其の父を喪ふといえども前途益々為す所あらん。」

『東京朝日新聞』(明治36年4月7日付け)
















『東京朝日新聞』(明治36年4月7日付け)