大倉喜八郎






明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!

クリック↑(トップページ)






「大倉喜八郎氏の計画・・・・・コロンブス世界大博覧会に純粋なる日本村を作り、世界各国人に東洋にも日本という立派な立憲帝国あるを知らしめ、兼ねて我が優雅なる風俗を彼らの眼に入れて恍惚たらしめんとの計画をなし居る由。」

『大阪毎日新聞』(明治24年12月5日付け)














大倉喜八郎


















大倉喜八郎

『近代百年史』より































◎大倉翁遂に逝く・・・・・九十二歳の長寿を完うして・・・・・富に恵まれた一生・・・・・去る十五日来大腸癌腫のため赤坂葵町の本邸に臥床危篤を伝えられていた大倉喜八郎翁は二十二日午後二時十分遂に九十二歳の高齢をもって逝去した。臨終の枕頭にはとく子夫人、喜七郎男夫妻、粂馬氏夫妻、高嶋未亡人始め令孫近親二十数名が寝もやらずつききっていた。二十二日午前七時頃危篤状態に陥ってロック氏注射を施した際には稲田博士は『もう三時間ぐらいでしょう』と最後の宣告をあたえたが、十時ごろになって令孫が『おじいさん!』と耳に口を当てると『ウムウム』とうなづき却って意識が明瞭になったので同博士も翁の心力の強いのに驚かされた模様であった。喜七郎男が有難い昇叙の御さたを伝える頃は眼を少しあけ感激の眼をしばたたいていた様であったが午後一時ごろになって立会いの南、呉、稲田、桑野四博士がいよいよ臨終近きを宣し、門野重九郎氏始め大倉系諸会社の重役三十余名は隣室に控え、とく子夫人を最初に近親が次々と筆で最後の水をふくませる。二時十分唇も動かず、少しの苦しみもなく安らかに九十二年最後の息を引き取った。危篤の報天聴に達するや翁が多年実業界並びに日支親善に尽瘁せる功労を録せられ破格を以って位二級を進め従三位に叙された。
◎告別式は二十八日赤坂本邸で・・・・・大倉翁の葬儀については親族一同集まって協議中で二十八日午後一時より三時まで赤坂葵町本邸で告別式を行うことと決定したが本葬についてはまだ決定をみない。
◎金も事業も思い通りに・・・・・機智と度胸の一生・・・・・鶴彦翁成功物語・・・・・大倉翁は十八歳の時たった二十両を懐にして上京し麻布飯倉のかつを節屋に奉公したり上野で干物店や銃砲火薬店を出したのを立志の門出として今日の財をなしたのだ。幼少から小太閤といわれた程の機智とくそ度胸、随分大?な仕事もやれば好き勝手な振る舞いもやり、金とあの体で普通人の二倍も人生を味わってきた。晩年は爵位も息の喜七郎さんに譲り、大倉組の外五十いくつかの会社からさっぱりと足を洗って例の一中節や綿いりの狂歌などで世間を茶化しいる。かと思うと蒙古に出かけたり山に登ったり一向世間並みの隠居らしい所を見せなかった。越後新発田の家は代々の名主で祖父も父も相当な徳望家であった。鶴彦翁はその三男で小さい時は鶴吉といい、いわゆる「神童」と称されたものだ。翁の一生中最も有名な話は上野戦争当時の事で官軍に銃砲を売って彰義隊に売らなかったというので遂に彰義隊に捕まり縮み上がると思いの外『官軍の方は金をくれますから売ったのですよ』とうそぶいて猛り立つ猛者連をへこましたり、又例の函館に陣を布いた榎本武揚一派を官軍が攻めに行った際翁は官軍の武器輸送をやり、帰りに米一万俵を積んで帰って来ることになったが、はしけを官軍の海陸連絡にとられ『天朝の御用だ。愚図愚図言うと打つ放すぞ』と脅かされた。翁はクソーとばかりに船頭に筒袖もも引きを穿かせて刀をささせ、腕には寺から錦らんの絹製を買って来てつけさせ『こっちも天朝様の御用船だ。無礼をするとその分では置かないぞ』と一泡吹かせてまんまと米積みを終ったこともある。何しろ干物店の鶴さんが物情騒然たる時勢を見て直ぐ銃砲店を開いた。駆引など恐るべき機敏というべく明治五年に洋行して外国貿易を創始したり、征台の役には兵たん輸送をやるし、日清、日露の両役には例の石くわん問題でとんだ悪評を買ったが、その富は雪だるまのようにふくれて行った。翁の対支事業に貢献したことは特筆すべきことだが、とうとう後には『対支投資は底なきかめに水を注ぐと同様だ』と歎じたこともあるそうだ。三井や三菱ほどはあるまいがノウといったことがあるが兎に角一代に何億という金を残したのだから大層なものだ。節約家ではあったが、学校其の他公益事業にも随分と金を出しているし、翁の建てた学校からはモウ一万人近くの人材を出している。多趣味な人で書は本阿?光悦について学び、美術の鑑賞眼ーことに仏像仏画に対してはその趣味性が極度に。集めたもののなかには国買となる様な品も少なくない。よく『金は遺さぬ事業は残す』と言っていたが二つながら遺したのだから思い残すこともあるまい。
◎真似のできぬ押しの強さ・・・・・五十年の友と別れて・・・・・渋沢栄一子の談・・・・・親交五十年の友であった大倉翁の死をきいた渋沢老は、感慨に堪えぬ如く思い出を語った。『大倉さんは私とは三つ違いの兄さんであった。去る十八日の午後見舞いに行って見るともう意識がない。奥さんが耳に口を当てて渋沢さんですと言うと聞こえたのかだまって手をさしのべました。これが最期と思って私もその手を握り締めた。思えば共に語り共に親しみ共に老いた懐かしい大倉さんとこれが最後の手を握った別れで、取り残された私は実にさびしい。私達は趣味も性格も全然相反していたが、それで気が合い一度も喧嘩したことがない。友達の誼から無遠慮に故人に対する私の感じを述べた方が却って故人に対して可いかも知れぬ。郷里から江戸へ出たのは大倉さんは十八歳、私は二十四歳、大倉さんは銃砲店で商売を始めて私は役人から銀行家になった。彼は借りるのが商売で私は貸すのが商売というように既にこの時から二人のゆく総ての軌道は全然相違していた。大倉さんはいはゆる豪傑肌の勇気りんりんというのではないが正直に言えば如何にも押し強く機を見るに実に敏だ。そして何事をなすにも打算が徹底しそろばんに合うと見たら、しゃ二無二押し切って奮闘するところは見上げたものであった。学問も随分あらゆるものを漁って片ツ端から読書したもので仏書でも漢籍でも美術でもなんでも一応はかじっているが然しどれといってまとまったものを持たない。旧幕時代の商人と来ては何しろ官尊民卑の絶頂の時であったから随分官にへつらい役人からはドレイ扱いにされたもので私等は何とかその幣を改めようと努力したもので、これには大倉さんも大賛成であった。商人の大倉さんは如何なる大官に対しても畏縮することなくその押しの強さといったら話し以上で盲蛇におぢずという流儀であったらしい。』
◎悲しい事が大嫌い・・・・・世の進歩には必要な男・・・・・益田孝男の思い出・・・・・あの人の健康法は私が見た所ぢゃ、あの人のあきらめだと思う。いけんことはいけんときっぱり断って、よく考えて見ようなんてこせこせこだわってはいない。駄目と思えばそれっきりで一中節なんか歌っていた。越後から出て来るころからやっていた狂歌などで、働く時は働いてもころっと気持ちを転じることを知っていた。それに悲しい事が嫌ひで、人が死んだ時など『死んだものはしかたがない。お前代わりに行ってくれ』などといって悲しみの席には出なかった。昔から向島が好きで遊びをしていたが、それもよく商売に利用していた。随分手前勝手な仕事をしていたから世の批評を受けたが、ああした思い切った仕事をする男も、世を進ませるには必要だ。」

『東京朝日新聞』(昭和3年4月23日付け)」








◎大倉翁死去す・・・・・昨日午後一族に護られて眠るがように・・・・・日頃の元気を語る臨終の模様・・・・・弔問客で赤坂葵町の本邸混雑・・・・・二十一日夜来病勢頓に険悪になった大倉喜八郎翁は二十二日午前一時半に到り全く絶望状態に陥り、喜七郎男、同夫人、長女高嶋未亡人、粂馬氏、同夫人其の他二十余名の一族に護られて二十二日午後二時十分眠るが如く死去した。臨終前は呼吸は変?となり三十を吸算へ脈拍百四十、極めて微弱何等の苦悶もなく死去したが平常健康であっただけに臨終前まで一族の者が何事か語ると一々これに対してうなづいてというが九十二歳の高齢としては全く珍しい事であるといわれている。翁の死去が伝えられて赤坂の邸は弔問客で混雑している。・・・・・生命の強さ臨終まで・・・・・始めての経験を南博士語る。・・・・・主治医南大曹博士は語る「翁の病気を発見したのは今春一月で腸カタルだといわれていたし、それで翁は相州小田原の別荘へ転地したが一月三十一日突然猛烈な下痢をやったので帰京をすすめ、それ以来静養を強要したのですが中々肯かず、向島別邸で名士を招き感涙会を開いたりなどしたために、病状を急に昂進させた。私は前夜(二十一日)来注射をやりながら幾度か絶望を宣伝したのですが殆んど奇跡的に変化し、二時十分まで保ったが、こんなことは私としては始めての経験です。これは翁の体が強健であり頭もしっかりしていました。一時頃は一族の方から話しかけされて一々肯づいていられた程で、安らかな臨終でした。」
◎十二畳の間に安らかな遺骸・・・・・雨哀しき第一の通夜・・・・・二十八日午後に告別式・・・・・翁が死去したその夜の葵町大倉邸は弔問客の自動車で埋もれる混雑、翁の遺骸は本館三階南向き十二畳の日本間の病室に北を枕に安置して白百合白薔薇の生花一対を枕頭に飾った。男爵喜七郎夫妻、粂間氏夫妻、高嶋未亡人及び令孫、門野重九郎氏以下直系会社重役等によって最初の通夜が折柄降りしきる春雨に一層のしめやかに営まれた。生前多方面に活動した翁のこととて其の葬儀に参列する者は多数に上がる見込みなので葬儀につき喜七郎男を中心に一同会議を開いた結果来る二十八日午後一時から三時までの間葵町の本邸内で仏式により告別式を行なう事に決定した。
◎鶴吉時代から太閤ぶり・・・・・大倉組の組織と高商、集古館・・・・・大倉翁は、天保八年九月越後新発田の豪商大倉千之助三男として生まれ、十八歳の時江戸に上がり、数年後独立して上野にささやかな唐物屋を開いたが、慶応元年早くも動乱蜂起を明察して神田和?橋際に銃砲店を開いた。これが鶴吉の少年時代「小太閤」と呼ばれ現在創設もしくは関係会社内地三十社、朝鮮四社、支那十九社を率いる「事業界の太閤」までの基をなした。時世を見るに敏な翁は維新後、羅紗毛布の類を販売し外人を傭入れて洋服業を兼営した。明治五年には欧米の商工業を視察して大倉組を組織し、支店をロンドンに置いて彼我物産の直輸出入を開始し、明治八年朝鮮と通商条約が成立するや釜山に独力で通商博を開き、?澤子等と共に金融機関を設置したのが現在の朝鮮銀行の前身。明治十七年再び欧米に歴遊、帰朝後土木会社を組織し、日露戦役中既に本?湖にて大資を投じて石炭採掘及び銑鉄の製造を始め又東京、大阪京城に一百区万円を投じて大倉商業学校を創設して人材を養成すると共に多数の美術品古書籍等を寄付して財団法人大倉集古館を設立する等公共事業に尽くす所が多かった。大正四年勲功により特に男爵を授けられ、大正十三年、家督を?子喜七郎氏に譲って事業界より引退、満蒙朝鮮金剛山等に歴遊、昭和三年旭日大授章を授けられたが、先年九十余歳の高齢で赤石山、金剛山に上がった際の所謂大名行列は目覚しいものであった。
◎商人として一貫した其の生涯・・・・・一生に唯一度参った話・・・・・暗然として渋沢子爵・・・・・鶴彦翁と五十年の友情を保った渋沢栄一子は、「大倉の死は社会的にも大損失だが、第一この渋沢が淋しくてたまらない」と長い友情を見詰めるものの如く語る。『私は役人出で主に銀行業に携わり、彼は一生涯町人で通し、この性格経路の異なった二人は長い友情を続けた。当時商業会議所創設提唱に、まづ賛成したのは彼であった。大倉はどんな人の前に出ても積極的に出て少しも驚かぬ。仕事に呑まれるということがない。機を見るに敏で何事にも大倉一流の見識を持ち、何事に対しても急所を外さぬ彼の鋭い洞察力が今日の大をなした。何者の前にも自己を屈せなかった大倉が一生にたった一度参った面白い話がある。大倉の一中節には我々友人は悩まされ通したものだが四、五十年前の話だが、私の関係した第一銀行の支配人で永田甚七という一中節の名人が、或る時何かの宴会で大倉と一中節の掛け合いをやった。始めてみると永田は名人だからたまらない。大倉は遂に沈黙して終った。側にいた芸者は「大倉さんの耳のいいこと」と皮肉った。之が大倉が敗けた最初で最後だったろう。』
◎演芸界にも多大な功労・・・・・大倉翁は又演芸界にも並々ならぬ功労があった。渋沢子爵の後をうけて大倉翁の帝劇取締役会長はかなり長いもので翁は帝劇創業者の発起人の一人として、梅幸、幸四郎、宗十郎等をはじめ、律子、喜久子、浪子、菊江、房子等の女優たちは常にその門に出入して恩顧を受けていたが、先年勘やが一門及び喜久子等の女優と共に支那及び満州方面へ巡業の際は、大倉翁のお声がかりで支那の大官其の他到る所予想外の歓迎を受けたなど大倉翁の声望を語るもので歌右衛門、羽左衛門等歌舞伎俳優も又翁の門に出入して愛撫されていた。
◎活動を止めぬえらい頭・・・・・強い責任感と情・・・・・石黒子爵語る・・・・・鶴彦翁が慈善事業に金を出す際に必ず相談を受けた同郷の石黒忠慶子爵は六十年の友情を追想して語った。『大倉は大胆で頗る責任観念の強い男で十年役勃発の際、大倉は朝鮮に旅行中であったが、陸軍の御用商人たる彼は月一回さえ汽船の出なかった当時敢然三丁船の?釣り舟で海峡を乗り切って帰ってきたものだ。又??の役には軍用の雑貨と人夫の御用に誰一人応ずる者がなかった中に、彼は雑貨と五百人の人夫を連れて渡?し、二百人の人夫がマラリアで倒れたが彼はその遺族の始末を立派にしてやったなどは彼の強い責任感と涙の一面を語るものである。活動して止まない大倉の不思議な頭は恐らく死に想到することなく瞑目したことと思うが、大倉の死は特に満州開発のため実に惜しいことであった。』
◎翁と『感涙会』・・・・・向島の別荘に年中行事の一つに数えられていた感涙会は此為め翁の病を重くしたとさえ伝えられているが、此集まりは釈尊降誕の佳辰をトし各々日頃鍛錬する妙技を揮ひその入神の技に人を感涙させようとの発意から企てられたものでわれと思わん斯道の鞍馬党が午前十時頃より夜半に亘っての競演会で、かなり物凄いのもある中に、翁はいつも老妓連の絃で一中節を語ったものである。
◎従三位に?叙・・・・・破格なる叙位・・・・・畏き?では大倉翁が多年実業界に尽瘁した功により去る二月特旨を以って勲一等旭日大授章を賜ったが更に今回危篤の報をきこし召され特別にの思し召しを以って左の如く破格の叙位の御沙汰があった。因に実業家にしてかかる恩命を拝したのは極めて稀な事である。
従四位勲一等 大倉喜八郎
叙従三位(特旨を以って位二級進めらる)」

『時事新報』(昭和3年4月23日付け)








合名会社大倉組(明治時代)






大倉喜八郎・・・・・の向島の別荘多くの阿嬌を貯へて当路の官人を抱き込むも、今の経理局長外松は頑固で、この手が利かず、番頭手こずって、大倉に言上すると、大倉、冷笑して、天下に黄力と魔力と女菩薩の済度で成仏しないヤツがあるか、外松がもし、この頑固を言い張ると、彼の位置は一年ならずして危うくなると、これでは、官吏も台無し。」

『神戸又新日報』(明治三十四年八月二十五日付け)

 






大倉氏の私設博物館・・・・・大倉喜八郎氏は赤坂なる自邸の一隅に壮大なる煉瓦家屋を新築中なるが、右は私設博物館に充つる考えにて、落成の上は、同氏所有の書画、その他珍器の器具を展列して公衆の縦覧に供する見込みなりと。」

『東京朝日新聞』(明治三十二年三月二十五日付け)

 







 「野田、大倉の狼狽・・・・・陸軍経理部内における不正事件暴露して熊田、村山、蛭間等の拘引せられたるより野田豁通、大倉喜八郎等は俄かに狼狽して揉み消し運動に着手し馬車に乗って八方に駆けまわり居れり。当局者は何故に早く野田、大倉、森(清右衛門)等の家宅を捜索せざるかと歯がゆがり居る者もあり。」
『万朝報』(明治三十六年五月二十一日付け)








 「机の塵・・・・・大倉組にてはこの前の日清戦役にて三百五十万円の利益を得たが、今度は少なくとも三四千万円を儲くる積もりだと言って居るそうだ。国民の血を吸う此の盗賊めー。」
『万朝報』(明治三十七年一月二十七日付け)







「財宝積んで山よりも高く出づるに、車馬あり。帰れば妻、妾左右に侍らし、一点不自由を知らぬ大倉喜八郎は、飽くを知らざる貧欲無慈悲にして即ち無情の動物。貧民より見れば、鬼か蛇の如き守銭奴なり。」

『公平新聞』(明治三十年十一月三日付け)

 

 







トップページ