西村勝三





明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!

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ー日本靴産業の父ー






『職工新聞』(明治四十一年四月二十五日付け)













明治三十九年十二月九日/西村勝三君銅像除幕記念
(稲川實氏所蔵)














明治三十九年十二月九日/西村勝三君銅像除幕記念
(稲川實氏所蔵)













「株式会社 桜組」
明治三十九年十二月九日/西村勝三君銅像除幕記念
(稲川實氏所蔵)






























明治2年


明治3年




明治4年

[◎靴職人の求人募集広告・・・・・ー御披露ー
沓(くつ)並に馬具都て革具為製造外国職人相雇細工場取建候間右職伝習御望の方へ御尋被成規則等御承知之上御入業可被成候。
★年齢、十四歳から十六歳まで八ヵ年、十七歳から二十歳まで六ヵ年、二十一歳から二十五歳まで五ヵ年、二十六歳から三十歳まで四ヵ年、三十一歳から三十五歳まで三ヵ年。
修行与相定候事
修行中衣食私にて取賄ひ候、以上。

東京築地入舟町五丁目  伊勢勝細工場  ]


『横浜毎日新聞』(明治四年十月十八日付け)







明治5年

       


明治6年



明治7年


明治8年
明治9年

 



明治10年
     
             



明治11年

 ◎府会議員当選者・・・・・今度、府会議員に選挙されたうちには辞した人もあるが、議員と決まった人達は、京橋区で大倉喜八郎、西村勝三、鹿嶋清兵衛の三氏、芝区で福沢諭吉、山中市兵衛の二氏、、、でありま。」
『読売新聞』(明治十一年十二月二十二日付け)



明治12年
明治13年


明治14年





◎西村勝三氏、大鳥圭介氏らに工場案内・・・・・一昨日は西村勝三氏(伊勢勝)が、華族稲葉君及び大鳥圭介、宇都宮三郎、渋沢栄一、依田百川の諸氏を向島なる堀田家の別業に招きて饗宴を開かる。弊社の主幹もその末席に列なり、勝三氏が製革場を一覧せり。同場は明治三年の創立にて、追々経験をもってその事に熟し、且つ先に外国へ伝習に派したる生徒が帰朝して、これに改良を加え、製革はもっぱら西洋の法により蒸気機関を用いるがゆえ、職工は殊に少なく、およそ六十名ほどにて、おもに靴或は陸軍馬具、背?等を製出す。その製革の法は巧みにして舶載のものと大違なきも、ただ羊皮等の染色に至っては未だ外国製に及ばざるところあり。方今靴に造る製革のみにては欠乏を告ぐ、よって清国及び朝鮮よりの輸入を仰ぐと、清国の牛皮は野牛にて革質はなはだ粗に、朝鮮の皮は日本の品に比すればやや佳なりという。ただしその需用によっては、日本の皮を最上とするものありと語られし。」

『郵便報知新聞』(明治14年4月20日付け)







明治15年






◎伊勢勝の耐火煉瓦・・・・・芝浜崎町において伊勢勝が製造せる耐火煉瓦は、かの英国のストーブリッチにも劣らざる良品なれば、これまで海外の品を用いし人も此の頃は輸入を仰がずこれを用いてその用に供すと云ふ、実に国益の一端とも云ふべし。」

『自由新聞』(明治15年6月25日付け)






明治16年


明治17年


明治18年

 「◎桜組の靴製造・・・・・府下にて伊勢勝の靴といえば誰れ知らぬものなき。同組の靴製造は近年最も盛大の由なるが、当今同組にて靴製造に用いる革は、靴の甲は和製七分、舶来三分にて、陸海軍納めの靴は皆和製を用い、注文者の望みによりては残らず舶来品をも用いる事なるが、底革は和製にては兎に角不十分なれば、多く舶来品を使用するとのことなり。」

『時事新報』(明治十八年八月十三日付け)

明治19年




ー広告欄ー
●桜組造靴場本店ー東京築地一丁目一番地
●同出張店ー同銀座三丁目十六番地
●桜組製皮場ー同向島須崎村一番地
●同出張店ー大阪難波御?前
●造靴場支店ー東京神田三河町一丁目三番地
●同?ー同入船町五丁目一番地
●同?ー横浜太田町一丁目十九番地
●造靴場支店ー熊本県下紺屋今町十四番地(注:熊本市紺屋今町)
●同?−下総千葉市場町?ノ口五番
●同分店ー神戸北長狭通五丁目七番地」


『時事新報』(明治19年1月16日付け)










◎皮革の騰貴・・・・・近来伊勢勝商店を始めその他府下の皮革製造場は更なり地方の製造所にても非常に工事の繁劇を来たしたるは、製靴の需用多きためにて、生皮に欠乏を生ずるほどの有様なるが、加ふるに昨今陸軍軍帽及び吸筒の改造したるので、是まで一坪(一尺角)十六匁内外の製革にて二割乃至三割の騰貴を呈したりといふ。」

『時事新報』(明治19年6月4日付け)




◎製革改良・・・・・近来洋服の益々流行するに従い、靴の製造も愈繁盛にて、職工中その技術に熟練得たるも多く、決して舶来品にも劣らざるのみか、却って日本製の方が上出来なるものある由なれども、元来我が国は未だ理化学の開けざるがため製革の術に至っては極めて不十分なる趣きなれど上等の靴はおもに舶来の革を使用し来りたるが、斯くしては製靴営業者の利益少なきのみならず現にその品物のありながら之を他国に仰ぐは不得策の最も極むるものなりとて、先年来西村勝三氏は常に製革改良の事を心がけ居たる由なるが、今度欧州より帰港した折、ドイツより製革法に最も熟練を得たる職工数名を雇い来たり、従来の製革法に充分の改良を加へんとの計画なりといふ。」

『時事新報』(明治19年8月14日付け)



◎広告


『時事新報』(明治19年10月7日付け「広告欄」)







◎西村勝三氏・・・・・製革並に硝子製造法取調べのため欧州諸国を巡遊中なりし同氏は、去る八日仏国郵船メンザレー号にて帰朝したり。」

『時事新報』(明治19年10月11日付け)








◎製靴製皮の改良・・・・・西村勝三氏が多年丹精を凝らして今日の隆盛を致したる東京桜組製靴所は、始めより充分その技術に熟練を得たる職工を選び、製皮も成丈良品を使用するが故に従って世間の信用も篤く、殊に陸軍警視等の御用を引き受け、店の繁盛は同業者中にてもその右に出づる者なし。されども同氏は之をもって足れりとせず、尚一層の改良を加えんと欲し欧州に渡行し、英仏及び独逸等を周歴して各地共製靴製皮等の諸工場を巡視し種々実地の取調べを遂げたる上此の頃帰朝せしが、今同氏の談話なりというを聞くに、近来我が国において製靴の術愈々進歩し、仕立ての技術に至りては欧州の職工にも劣らざる次第なれども、製皮の法に至りては未だ彼の諸国の製法に遠く及ばざる所なり。されば靴の甲皮には在来の製皮を使用するを得るも、その底皮の如きは何分製法不充分なるをもって兎に角に破損し易き傾きあり。この点に改良を加ふれば一般の経済上に取っても非常の地益を得る次第なれば、漫遊中にも重にこの点において取り調べを遂げ、且つ今度独逸の某製革所にて工長を務め居たるベルゲンといへる人を雇い入れたれば、同人近々来朝の上は向島製皮所を一層拡張して大いに之が改良を加ふる計画なり云々。又同氏の言に近頃日本にて流行の靴型は、先の細くして之に飾を着けたるものなるが、是は衛生上に害あるのみならず、遠路の歩行には極めて不便を感ずるものなり。この節この流行を来たしたるは恐らくはフランスより伝染したるものならん。現にフランスにおいて出来合いの靴形は大抵先き細の方なり。故にこの形は中等以下の社会に流行し居るものにて、之を評すれば東京の職工が足の爪先に小形なる細緒の小間下駄を着けたると同様の姿なり。されども中等以上の人々は固より靴屋に注文して足趾の形を取らしむることなれば、斯かる先き細の靴を用ゆること尠く、爪先きの平扁き方が流行せり。予が同地滞在中にも靴の共進会を開きたるが、その筋より先き細靴は衛生上に害あることを示し、久しくこの靴を使用して足趾が自然の形を失へる模造品を出品し一般の注意を促したる程なり。兎に角我が国において斯かる流行は早く廃止し度きものなりと物語りたりと云ふ。」

『時事新報』(明治19年10月15日付け)











◎広告・・・・・右学校用ランドセルは、、、弊社長西村勝三、欧州より携え帰り候につき、今回摸造発売仕候、、、」



明治時代のランドセル

『時事新報』(明治19年12月15日付け「広告欄」)




明治20年



                




◎横浜船客・・・・・神戸行き・近江丸(1月22日)ー西村勝三。」

『時事新報』(明治20年1月24日付け)









製革改良・・・・・向島桜組にては事々製革の業を拡張し、行々は外国品の輸入を仰がざるの主意にて差し向き、その需要の多き牛皮を製し傍ら陸軍省の御用も帯びて、その製革は靴、帽子?刀?上包等種々の用に供せしが、近来所々に製造所の起こりて蒸気器械を利用する者多きより、シラベ皮の需用又頓に加わりしに、元来シラベ皮はその精製の方法他の靴革などと異なりて猶?玻璃器製造中板玻璃は最も難しきが如く、素人の目より見れば容易に見えてその実容易ならざれば、今後はその製法をも研究せんと先般西村氏が欧州巡回した節、所々の製革所を歴覧してドイツの製革法最も他に勝りたるを見、同国より教師を雇い同船して帰りしが、目下専ら右の教師某に就いてシラベ皮精製法の試験中なりといふ。又同組にては是まで専ら日本産牛皮のみを用い色々実験せしに、日本並牛一頭の皮は平均三十二坪なりて(皮の一坪とは一尺四方を云ふなり)その皮の内にて最も良き所は両背なれども、従来本国の牧牛たる農用力用の目的なるを以って常に車を曳き重荷を背負はしむるため肝心の両背皮は磨れ断れ、或は瘤などの出来て用に立たざるもの多く、シラベ革などには最も不都合を感ぜしが、昨年来は肉用を主として?養する牛の増加せしものとみえ、無疵の牛皮を得らるることとなり、且つ屠牛の法上達せしがゆえに、屠殺の際皮面に傷つけず彼是大に製革者を助くる様子なりしといへり。されど地方より送り来る者には猶疵物多く、只地皮と称へて東京屠獣所などより出す者最も上等なりといふ。但し東京は地牛といへどもその実は地方より来るもの故、これ等は屠牛法の一点にのみ困るものならん。されば今後肉用の牛増加してからの屠牛は法益々完全するに至らば今一層良皮を得らるべし。この外本国の牛については上方北国中国産に拘わらずその皮は大抵同様にて皮の坪数も亦?ね同様なりといふ。因に起こす製革家の実験に朝鮮牛は日本産に比し数等も下りて坪数も二三割少なく且つ屠殺?の法に合わざるがゆえに満身に疵ありてしかも上等の品物には用い難く、その需用も近来大いに減ぜし由。桜組にても先年少々試用したる事なりしが、その望み薄きを知りてよりは、一切朝鮮牛皮は使用せざる事となしたりといふ。」

『時事新報』(明治20年2月28日付け)










◎品川硝子製造会社・・・・・同会社は?に製造所一式を込めてその筋より払い下げたる以来は孜々事業に勉励して中々に盛んなりしが、社長西村勝三氏が欧州より帰朝したる以来は一層手広に業を営まんとて、彼のドイツの硝子製造法に倣い瓦斯を利用して熱度を高むるの趣向になし、巳に?を築造して試験せし処、可なりの成跡を得たれども猶ほ大いに研究すべき処もありとて、今度同社の職工長中西宜氏は右取調べ方々硝子全体の事業視察として、来月初旬ごろドイツへ向け出発する筈なりと云ふ。」

『時事新報』(明治20年10月29日付け)












◎西村謙吉氏・・・・・西村宮中顧問官の実子にして、当時西村勝三氏の養子なる同姓謙吉氏は、是まで東京職工学校において修業中なりしが、猶深く工芸学を研究せんがため、最初三年間はドイツに、その後四年はフランス、スイス等に留学を思い立ち、本日発途するといふ。」

『時事新報』(明治20年11月16日付け)




◎品川硝子製造所・・・・・品川硝子製造所は三条公の創設に係わり、その後元工部省にて買い取り、明治十六年稲葉正邦、西村勝三両氏へ貸し渡しとなり、幾許もなくして年賦払いとなり、その間西村勝三氏一人の尽力にて持続し来り、今般其の年賦金も即時完納して全く同氏の所有となりし由なるが、従来同所にて製造する物品は火舎、燈器、食器、雑品等にして、本国には其の原料も乏しからず、職工の賃金も高しというに非ざれ共、如何せん古来嘗て経験なき新事業なれば、製品の質、時に外品と拮抗しがたく、価格も亦た低廉なるあたわざりしがため、輸入品を圧倒して内国の需用に充つるに足らず、その間許多の経営をなせしといえども容易に満足な結果を見るあたわざりしかば、西村氏は昨十九年中、同業の景況を探究せんとて欧州に渡航せしに、彼の地にてはドイツ国シーメンス氏が発明したるガス利用の竈を用いてより硝子製造業は大いに其の面目を革め、僅々七八年の間に非常の進歩を現したるを見て、品川硝子製造所にても速やかに新式の構造に従い事業を一新せざるべからずと決意して帰朝せしが、それより先ず新式竈の築造に着手し傍ら純然たる私有となすの計画をなせしに、いよいよ整うに至りたれば是非とも業務上にも大改良を加ふべき見込みにて、実地熟練なる技手中嶋宜氏をして新竈其の他製法術を研究せしめんため去月十六日ドイツ国へ派遣したる由にて、猶ほ将来に施すべき計画は左のごとしという。
一、品川硝子製造所を会社組織にすること。
二、食器、燈器、火舎、薬瓶等の製造も一層従来の区域を拡張し且つフラスコ等の酒壜をも製造する事
三、ドイツ国より実業に慣熟し瓦斯竈建築及び使用法其の他硝子器一切の製法を熟知する技師を雇い入れること。
四、柏村庸氏を同所の管理とする事等にして、
柏村氏はドイツ国に七ヵ年程滞在して工業に従事する人の由なるが、明年四月ごろドイツの技師及び中嶋宜氏等と同行帰朝するはずなりという。」


『時事新報』(明治20年12月11日付け)






◎東京熟皮会社・・・・・今度渋沢栄一、川村傳衛、益田孝、西村勝三、高洲退蔵、高浜忠、依田柴浦、林謙吉等の諸氏が発起に係わる題号の会社は営業資金十五万円をもって有限責任の組織となし、差向き借事務所を京橋区築地一丁目桜組伊勢勝工場内に設け、追って本社の位置をトする筈なる由。支社は神戸港に置き同地において熟皮工場を建設する目的なりと。扨今回同会社を設立する要旨は近来年一年に皮革の必要を感じ、なかんずく製靴工業のごときは、日を追って多額の皮革を要するも、すべて舶来の熟皮を仰がざるべからず。然るに獣皮類の内供給最も多数なる日本牛の生皮は凡そ百斤につき二十四五円内外にて輸出なし、而して彼の地より右等の熟皮を購求するには米国キルベ会社などの製品にて、一番古皮上等四十八九円新の安物にても四十円を降らず、されば僅々百斤(牛皮凡八枚内外)に付いて生皮の一倍或は品により二倍の高価に品位を高めて輸入するに至るは、畢竟日本において未だ熟皮の業に暗きが故なるは止むを得ざるところなれども、過般西村勝三氏が帰朝後は追々熟皮製造の道もやや其の緒を得るに到りしかば良しや充分の熟皮は製し得ずして半製の品を輸出なすも生皮のままをもって輸出なすとは経済上多分の利益を奏する計算なりとの事にて、昨今会社定款等も既に脱稿したる由なれば、不日其の筋に出願の運びなりという。」

『時事新報』(明治20年12月18日付け)







明治21年

桜組、靴の原料・・・・・桜組にて本年一月より三月までに製造したる靴の原料は、象牛馬の三種にて二千四百枚、この収入額は金五千六百三十二円七銭五厘なりという。」

『東京日日新聞』(明治21年4月17日付け)





品川硝子製造会社・・・・・品川硝子製造所は去る明治十八年中、西村勝三氏外三名にて払い下げ営業をなしおれるが、今度之を会社の組織に改め、資本金を十五万円(三千株)となし、内千株は発起者にて負担し、二千株は有志者より募集し、品川硝子製造会社と改称して、本社を品川の工作場に設け、支社を長崎、大阪の二ヶ所に置くの都合にて、一昨二十七日芝区白金台町三丁目五十四番地山口県士族柏村庸氏外四名より其の筋へ出願したりと。」

『時事新報』(明治21年4月29日付け)








◎横浜船客・・・・・神戸行き・神戸丸(5月5日)ー西村勝三。」

『時事新報』(明治21年5月7日付け)













◎横浜船客・・・・・神戸より入る・神戸丸(5月16日)ー西村勝三。」

『時事新報』(明治21年5月18日付け)






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品川硝子製造所・・・・・同所が事業を拡張する趣きはかつて本紙上に記載せしが、ドイツ国に出張し硝子製造業を研究しおりて今回同所の発起人となりたる柏村庸氏は技手中嶋氏及び今回同国にて雇い入れたる硝子製造工長ドイツ人二人を引き連れ、過日欧州を出立し明二十五日横浜へ着する旨、香港より通報ありしという。」

『時事新報』(明治21年5月24日付け)









◎熟皮会社・・・・・先般、渋沢栄一、西村勝三、田中元三郎等諸氏相謀りて兵庫県神戸に熟皮会社を創設せしよしなるが、右は西村氏が多年計画せる処にして之がため氏は昨年欧州諸国を周遊し各地の熟皮事業を実視し諸国の折節ドイツより熟皮技師一名を雇い入れ来り、東京向島なる西村製革所に従事せしめ爾来漸く改良の実効を挙げたるより、愈々此度は諸事業を拡張し外国の輸入を防がんとの目論見を立たるなり。従来我が国において熟皮業者なきにあらざるも、とかく技術拙くして今日の需用に適し難く、靴鞄の類より馬具兵器等を製する皮革は大概舶来品を使用し居る次第にて、殊に現今全般に肉食愈々盛んなるに当たり、牛皮の産出頗る夥しきも其の生皮十中の七八は横浜神戸における外商の手に落ち、一旦之をドイツその他の諸国に輸送し之を製して復輸入し来るの始末なり。しかれども右設立の熟皮会社は規模頗る広大にして、五十馬力の蒸気器械二台を据え付け、関西地方より出る牛皮は悉く一手に買占め之を熟製するのみならず、朝鮮より輸入の牛皮も多くはこの工場にて製し広く全国の需用に充て、尚ほ漸く外国へも輸出せんとの計画なりと云ふ。」

『時事新報』(明治21年6月9日付け)」








◎品川硝子会社・・・・・同会社が株主組織となすとの趣きは嘗て本紙上に記載せしが、いよいよ株主の申し込みも満ちたるにより、来る十八日株主総会を開き定款草案を議定し委員を選挙するはずなりといふ。」

『時事新報』(明治21年6月15日付け)



◎品川硝子会社の仮開業式・・・・・予ねて本紙に記載したるごとく、品川硝子製造所は今度株主組織に改まり、更に品川硝子会社と称して柏村庸氏は社長に、西村勝三、高濱忠恕、馬越恭平及び正田章次郎の四氏は委員に各々選挙し、業務拡張の計画にかかりたるについては、一昨一日をもって品川なる会社の構内において仮開業式を行い、役員の外に株主其の他来賓の案内に応じて会したる者凡そ百十数名にして、時刻到るや一同を立食の席に請し、柏村社長の祝詞を終りたるうえ厚き饗応あり。当日は工場を開きて来客の縦覧に供し、望みに従い実物によりて夫々説明を加え、宴席には同社製造の瓶に酒を盛り、又同じく新製のコップを来客に贈与するなど、頗る行き届きたる持て成しなりしとぞ。しかも目下着手の新かま落成の日に至り、本式に開業をなすはずなるよし。」

『時事新報』(明治21年7月3日付け)










◎横浜船客・・・・・神戸行き・山城丸(7月18日)ー西村勝三。」

『時事新報』(明治21年7月20日付け)








◎横浜船客・・・・・神戸より入る・山城丸(8月6日)ー西村勝三。」

『時事新報』(明治21年8月8日付け)









◎横浜船客・・・・・神戸行き・神戸丸(11月14日)ー西村勝三。」

『時事新報』(明治21年11月16日付け)










◎横浜船客・・・・・神戸より入る・神戸丸(12月16日)ー西村勝三。」

『時事新報』(明治21年12月18日付け)











明治22年







◎品川硝子製造会社・・・・・は先頃より社の組織を改正し、ドイツより硝子製造の教師及び技手を聘し職工を薫陶し硝子製造の改良を計りしが、追々其の目的を達すべき見込み付きたるにより、近々筑前地方に一の製造所を構え、更に今日まで我が国において未だ製作の出来ざる板硝子を製造するはずなりと。」

『時事新報』(明治22年6月5日付け)













明治23年

◎名誉賞金牌・・・・・第三回内国勧業博覧会において名誉賞金牌拝受仕弊店の光栄無此上難有仕合奉存祖候就いては御礼のため猶一層各靴及び皮革その他諸革具類廉価は勿論品質製造とも総て入念調進仕候間江湖の諸君旧に倍し御愛顧の上御用向被仰付度伏て奉?望候以上。明治二十三年七月
東京市京橋区築地一丁目一番地   桜組造靴場
東京市京橋区銀座三丁目十六番地   桜組出張店
東京市本所区向島      桜組製皮場
東京市神田区須田町十九番地     桜組出張店」



『横浜毎日新聞』(明治二十三年七月十九日付け)
 
注:「職工義友会」東京支部の住所は東京市京橋区銀座三丁目十九番地 








◎名誉賞七人の履歴(桜組組長西村勝三氏の履歴)・・・・・西村氏が始めて造靴の業を開きたるは明治三年にして、当初は西村組をもって名とせり、翌四年三月築地入船町に製皮場を開きしが、五年六月本所区須崎村一番地に移転し盛んに工場を新設せり。其の地、隅田川の東岸にありて桜堤に臨めるより桜組と改称し、ついに桜花をもって商標となしたり。開業以来、陸海軍省の命により軍用靴を製すれども、其の皮料は全く海外品を用ひざるを得ざりき。是において西村氏奮発し、専ら陸軍靴甲革を製出せんことを目的とし、フランス人ジュリアード、ホントテル氏の原料によりて研究し、その製法を創めたり。十二年五月該工場工師山崎亀太郎氏をオーストラリア、シドニー府に派遣し、アルドンソン氏の製革工場を実験せしめ、帰朝の後同国の製式に倣い新たに諸の機械を設け大いに改良を加えしかば、ようやくにして黒牛茶牛皮の製法に熟達し、陸軍砲兵工廠において軍具に取用せらるるに至りぬ。十四年ロシア軍艦横浜へ来航せし時、その需求に応じ水兵靴類を製造せしに、極めてその意に適したるより同国軍艦の注文年々相次いで断えず、販路漸く開けて香港及びウラジオストック地方へ輸出するに至れり。初め氏が靴工を開くや欧米の製造を詳にするあたわざりしかば、横浜に在留せる一外客に就き其の法を問へり。外客一の靴型を示し三百円をもって売らんことを求めたり。氏即時に其の金を付して之を買い、因ってその製法を聞き得たりと。夫れ一個の靴型は固より価値あるものにあらず。外人の言蓋し製法を伝えざらんとして、ことさらに高価を示し、もってその意を試みしものなるべし。しかるに氏は巨金を惜しまずして、切にその法の指授を求む。外人も亦その志壮なるに驚き、当時秘する所を挙げて之に語りしならん。是れ古人がいわゆる駿馬の売を千金に買う者なり。氏の靴業を興す熱心なる此れをもって知るべし。明治十年第一回内国博覧会に製靴を出陳して龍文賞牌を賜はり、明治十四年又第二回の博覧会に出品して一等有功賞を得、職工総衆へは三等進歩賞を賜はりたり。明治十七年始めて鞄の製造を開業す。現今製出の品類は靴、鞄の外、機械用調革、馬具類、??塗製品等にして、造靴場を築地一丁目一番地に、革具場を同町四番地に開き、又出張店を銀座三丁目と神田須田町とに設け、桜組の名遠く海外に及びたり。十九年四月西村勝三氏自ら欧州に渡航し、ドイツ国アルトナーユルスに至り該地に著名なる製革場の工師ウエーリンヘルケン氏を傭聘し、帰朝の後同氏と相謀り大小の諸器械数個を増設しければ、工技益進達し、二十年二月ドイツ国ベルリン府エムイ、サロモン商会の求需に応じ自製丸甲革、半甲革、及び半仕上革、象牙類若干枚を輸送せしに、ベルリン市場において好評を博したり。二十二年中靴鞄の産出高と販売高は左のごとし。
靴産出高九万八千三百八十六足   代価十二万七千九百一円
同販売高九万四千八百足   売価十三万00七十五円
鞄産出高一万八千個    代価一万九千八百円
同販売高一万二千五百円    売価一万四千五百七十円
販売価通計金十四万四千六百四十五円

当今桜組の組長は依田柴浦、西村勝三の両氏なり。今回第一部工業品の中において、靴工の進歩尤も著しく、各地方競ふてその製造を興せしより製額大いに増し殆ど舶?品の供給を仰がざらんとするに至り、漸く海外に輸販するの勢いなり。而して全国製靴の業をして此のごとき盛大を視るに至らしめたるは、首として西村氏が率先者となり、併せて製皮事業を発達したるの功に由らずんばあらず、桜組の名誉賞を得る亦宜ならずや。
  」


『横浜毎日新聞』(明治二十三年七月十九日付け)





◎西村勝三氏対博覧会審査官勧解・・・・・は昨日麹町区治安裁判所にて不調となれり。」

『東京日日新聞』(明治23年8月10日付け)






◎桜組出張店の出火に付・・・・・銀座三丁目桜組出張店より出火したる原因は厠のランプより起こりしとの事に聞きしが、昨今また放火ならんとの嫌疑起こり、その筋において厳重取調べ中なりと聞く。又一説には出火の夜同店にて八百円余の金紛失し、既に今日に至るまで其の曲者の現れざるより、昨今社員は種々手を尽くし共吟味までなし居るよし。」

『東京朝日新聞』(明治23年12月11日付け)




明治24年

明治25年






◎品川硝子会社長の控訴・・・・・第一国立銀行頭取渋沢栄一氏より品川硝子会社長柏村庸氏に係わる年賦約定金請求の訴訟は既に東京地方裁判所において柏村同会社長の敗訴となりしが、同氏は此裁判を不当として東京控訴院へ控訴したりといふ。」

『時事新報』(明治25年8月10日付け)






◎品川硝子会の財産差押・・・・・品川硝子会社は石炭商西村巳之助氏より石炭売却代金七百五十円の債権に対し売り掛け代金請求の訴訟と同時に同会社一切の財産仮差押を執行し、会社社長柏村庸氏に之に対して直に解除の申し立てをなしたり。」

『国民新聞』(明治25年9月7日付け)












明治26年



明治27年


明治28年



明治29年

 



明治30年


 


明治31年


明治32年

 












◎桜組の創業三十年祝い・・・・・製靴工場とて、あまねく知られたる桜組西村勝三氏は、昨日が同工場創業の三十周年に当たる趣にて、芝公園紅葉館に内外の貴顧紳士を招待して祝賀の園遊会を開きたるが、正午ごろよりの新晴に乗じて会し来る者、伊藤博文侯を始め、商業社会に令名ある諸氏、陸軍武官、代議士、新聞記者等、無慮百余名あり。例のごとく同館の庭園にて種々の宴応あり、余興あり、すこぶる盛会なりしが、三時ごろより陰雲迅雷を伴いしために、来客の散会したるは遺憾なりき。ちなみに記す。桜組にて製靴事業を創めしは去明治三年三月十五日にして、当時、我が国において軍靴の製造をなすあたはざりしより兵部省の勧誘により、西村氏奮然斯業を創始し、爾後三十星霜を経て今日に至りしものなりという。」

『横浜毎日新聞』(明治三十二年十月三十日付け)






明治33年



「◎靴工同盟会の総会・・・・・去月一日午後一時より芝公園三緑亭に於て靴工同盟会の総会を開会せり。同会々長は西村勝三氏にして会員群がる事同亭に立錐の余地無し。幹事諸氏より会務に関するの諸報告等あり。同四時過ぎよりは海軍少将肝付兼行氏臨場ありて本邦は農作国にあらず将来工業国是たるの方針に依るべき演説せられ一同に感激せり。点燈頃に及んで一先休席々を転じて来会員一同に洋食の饗応あり。再び同少将の演説あり。又会員某氏の答辞あり。食堂は粛々として盛会なり。只洋食ヒ皿の響を聞くのみ一員も席を乱すものなく品行方正なる動作なりしは西村会長及び役員諸氏の厳正なるを証せり。巳に会員には桜組々員多し。許多の職工を斯く規律よく風習を矯め養成せられし偉功は多年西村会長の薫陶にして今や緑綬褒章の栄誉は当然の事にて来賓一同に敬服なる事を賞しあへり。記者も当日御招待を蒙り威風の余り会長の万歳を祝し又会員諸氏と共に同会の万歳を祝して解散せり。」

『工談雑誌』(第124号 明治33年2月)








◎西村勝三病中貸金の證書を焼く・・・・・西村勝三、維新の初め靴の需用日に夥多なるに拘わらず専ら之を外国に仰ぐは経済上得策にあらざるを感じ、苦心経営し、ために負債積んで山のごとくならんとす。明治七年病を得て甚だ危篤なり。医師その全癒すべからざるを云い、勝三も亦且つ黄泉の人たるを思い、即ち知友岡田平蔵を招き、後事を托して曰く。余が命既に旦夕に迫れり。正に後事を托すべき秋なり。余が産は微にして負債山積す。請ふ君余に代わりて余の財産全部を売却し、もって余が返済の義を終らんことを。然れども貸し付けたる金員は一厘たりとも無きものとして計算せよと。之を決算せしに負債二十九万円に上がり而して資産わずか五万円に過ぎず。しかも其の貸し金は多くは官吏、旧知己貧困者もしくは旧藩士等にして之を請求せば、ために彼らの困難を来たし旧誼に悖るの事を生ずべきを思い、而して又死後或は遺族の彼等に請求することあらんを恐れ、負債者を病床に招き、理由を告げ、一々其の面前に證書を焼尽す。負債者、落涙其の恩義深く且つ至れるに感ぜざるなし。」

『実業家奇聞録』(実業之日本社 明治三十三年十一月)












◎西村勝造獄裡の長者となる・・・・・徳川氏の制頗る朱の売買を制限し、朱座設けて金銀両座と並び立たしめたり。西村勝造の初め江戸に出づるや、私に朱座を利用して万金を儲けるの野心あり。横浜の外商に接近して大いに外産の朱を密売し、朱座の制限を犯して一挙に数千金を得たり。既にして事発覚し、捕われて伝馬町の獄に投ぜられ、家財概ねに没収せらる。勝造私かに以為く地獄の沙汰も金次第と聞く。吾今黄白乏しふして外に助くる信友なし。獄裏の艱難必ず他に勝るものあらんと。而して獄中意外の富あり。佳看珍菓積みて堆を成す。而も皆吾がために備へられしなり。居る事三年大勢変じて突然放免せらるるや、往年契れる金瓶楼の某妓迎えて門外に在り。手に縋って歓泣語なし。待女妻に在へばすなわち曰く。『あなたが御入牢中、おいらんの苦労は一と通りじゃありません。三年の間の差し入れ手宛モウモウ実に涙が溢れました。』と勝造ここに至りて始めて獄裏の長者たりし所以を解し、終に其の妓を娶りて旧恩に報ふ。」

『実業家奇聞録』(実業之日本社 明治三十三年十一月)














明治34年



◎寸鉄・・・・・桜組の主人西村勝三氏がパリの某工場へ行て其の工場の主任者に四五十ドルの俸給で職工を一人雇い入れたいと言ふた所が「学士ならソレで雇えるけれども職工は百ドル以上でないと雇えぬ。」と言ふたそうである。日本の工業も職工がコレ位の俸給を取るようにならぬと発達せぬ。」

『労働世界』(第八十四号・明治三十四年七月十一日付け)






◎製革場移転問題・・・・・都下の製革場中、明治二十四年の警視庁令により本年十二月三十一日までに同庁指定の場所に移転せざるべからざるもの多し。向島の桜組、亀岡町の各製革場の如き其の重なるものなるが、昨今の処、何れも移転の準備をなし居らず。桜組の如きは延期を出願せん見込みにて、亀岡町連は桜組の模様を見て運動せん意向なりという。桜組の製革場は小松宮殿下の御用邸に接近し居るを以って、先年警視庁に対し移転の交渉ありしも、同庁にては二十四年の庁令もあれば三十四年の期限まで移転猶予を願い出で今日に至りし事情もあれば、今度桜組より移転延期を出願するも警視庁は之を許可すること能はざるべしという。」

『万朝報』(明治34年10月2日付け)












明治35年

明治36年




◎品川白煉瓦会社創立総会・・・・・品川白煉瓦株式会社は、既報のごとく昨日午後一時より、京橋区工業倶楽部において開かれ、発起人の報告に次いで定款変更の件、取締役、監査役の員数、報酬、選挙及び商法第百七十五条適用の件、品川白煉瓦合資会社の買収及びその営業継承の件等を可決したるが、取締役には西村勝三、藤村義苗、山内政良、監査役には浜崎永三郎、高松録太郎の諸氏当選したり。」

『時事新報』(明治36年6月26日付け)








明治37年


  
 
明治38年



◎本邦製靴と清国の需要・・・・・在清国福州南台大田原氏より農商務省商品陳列館へ向け清国における本邦製靴需用の傾向を述べ輸出紹介方を依頼し来たりたるをもって、同館にては直ちに製靴株式会社、ともえ屋、桜組へ通牒したり。而して製作上要件は左の如くなりと。

第一、値段は一円以上二円五十銭以下の事
第二、牛靴若しくは編上にて色は黒又は赤に限る
第三、皮製なるを要する事
第四、丈夫なる事
第五、底に?を打つべからざる事
第六、需要者の年齢は十歳前後より二十二三歳にして清国人の足は日本人に比し一般に小さく且つ足?に?り急に細くなり居るに注意すべき事」

『読売新聞』(明治三十八年六月十四日付け)
   


明治39年

 

明治40年

  

  



「◎西村勝三氏の死去・・・・・かねて盲腸炎に罹り療養中なりし桜組西村勝三氏は昨朝四時ついに死去したり。享年七十二歳惜しむべし。尚ほ葬儀は来五日仏式を以って品川東海寺に執行の由。」

『読売新聞』(明治四十年二月一日付け)








◎西村勝三氏死去・・・・・武士道と商業道徳との調和は氏の性行において之を見ることができる。氏は明治の初年から身を実業界に投じたるが、その間、一回も相場に手を出したこともなく、又工業以外の事業には耳を傾けたこともない。身を処すること厳格で、公共のために陰に陽に尽くしたことが指を屈するに遑ない程である。」

『朝日新聞』(明治四十年二月一日付け)



明治41年







◎工業界の偉人・故西村勝三翁(一)
 
・・・万歳生命保険会社専務取締役 藤村義苗君談・・・
・・・・・
★天成の工業家である。
で何か新しい仕事を発見すると、之を実行して見たくって堪らなかったのである。この天然の発明心、寧ろ好奇心は其の青年時代の時、即ち世は幕府の末路で西洋の文明は僅かに其の曙光を見せておった頃から、すでに其の芽を発していたのであった。其の例を挙げてみると、かつて或る所の西洋の錠前を見た。すると直ちに之を壊して其の組立を点検し自分で製造して、日本の物にしたくて堪らなくなったのである。安政三年に長崎における幕府の砲術伝習員に加わらんと欲して、遂に脱藩したのも、新智識を得、新研究をなさんと欲するの心止み難いものがあったからであろうと思われる。
★初めて硝酸を使用す。
同じ頃、中仙道行田駅なる叔父某氏の処に客寓していた時、某寺の住職で俳諧の宗匠をしていた僧某のために、高点者の賞品を工夫して、浅黄木綿に硝酸をもって俳句を書き現すことを教えたのも、この心の発芽を示す一事実である。当時日本には硝酸がなかったから、氏は僅かに脳中に貯えたる智識を総合して自身にこの薬品をも製出したのである。
★始めて耐火煉瓦類似品製造。
この手拭に現われた秀句が図らずも野州佐野なる正田利右衛門なる人の目にとまり、之は必ず化学に詳しい人であろうと思われて遂に佐野に招聘せられ彼がために製鉛業に従事して、心を尽くして反射炉の築造を研究し始めて耐火煉瓦の類似品を製造したのである。
★工業の開山開祖。
氏はこの発明工夫に富むの心をもって、天下に率先して諸種の工業を起こした。而して以為らく工業でなければ国を富ますことはできない。この心は深く且つ固く氏が胸に刻み付けられて氏をして常に工業界の先導者たらしめたのである。氏は実に日本における工業の開山開祖と称しても差支えなかろうかと思う。
★靴業の嚆矢。
氏が兵部省の勧めによって、始めて築地入船町に軍用靴製造を開設したのは、実に明治三年の六月である。これ本国造靴業の嚆矢であって、オランダの工師を雇聘し、我が職工に其の技術を伝習せしめた。現今我が国における靴工の多数は直接又は間接に、この系統によって其の業を伝習したものである。同年十月には、軍靴材料及び革製造の目的をもって始めて製革所を築地入舟町に設け、次いで其の規模を拡張するため翌四年これを向島の須崎村に移した。
★洋服裁縫業の祖師。
同じ四年にドイツの洋服裁縫師を雇い入れて、銀座一丁目に洋服裁縫店を開設した我が国の洋服裁縫職工で、最も早く其の業を習得したものは、多くはこの雇ドイツ人の薫陶を受けたものである。
★メリヤス製造の創始。
明治五年には又メリヤス製造の業を創始した。元来メリヤスは靴と伴ふて共に其の必要を感じる靴下を製造すべき原品である。然るに当時靴下は皆之を舶来に仰いで其の価亦非常に高く、陸海軍は之がため出資を要することが甚だ多額に上るのであった。そこで兵部省は、之が製造を氏に勧めたのであった。氏は固より国益の一事業であるから、直ちに横浜のハーブル商会に依頼して器械を注文し、築地及び下総の佐倉に其の工場を新設し、男女生徒をして之を伝習せしめた。是が実に我が国におけるメリヤス製造の嚆矢である。(未完)」

『職工新聞』(明治四十一年四月二十五日付け)









◎工業界の偉人・故西村勝三翁(二)
 
・・・万歳生命保険会社専務取締役 藤村義苗君談・・・
・・・・・
★革具製造所。
同年又革具製造所を築地に設立し工師を雇い生徒を募集して洋式馬具其の他軍用革具の製造を伝習せしめた。
★東京ガス局の創設。
東京で始めてガス燈を見るに至ったのも氏の力興って多いのである。明治八年由利公正氏が東京府知事であった。当時芳原にガス燈を設立する目的で其の器械を購入した。然るに由利氏は府知事を免せられ、器械は空しく倉庫に蔵せられた。ところが氏はこの器械を利用して、府下にガス燈を設立し、府の外観を飾り且つは市民に便益を与えんと思って之を東京会議所に謀って其の賛成を得、東京ガス局を創設に力を尽くし、撰ばれてガス局副長となった。そして最初は種々の困難に遭遇したのであったが氏はよく諸種の困難を排し、種々経倫画策する所があって、漸次其の規模を拡張し遂に今日の盛大を見るに至ったのである。
★耐火煉瓦製造所。
同年氏は又ガス局の許可を得て、同附属地構内の一部を借り受け、耐火煉瓦製造所を創設した。是れ実に今日尚品川において、盛大に其の業務を続行しておる所の品川白煉瓦株式会社の前身である。
★ビール瓶の製造。
明治十六年には華族稲葉正邦氏と共に工部省所轄品川硝子製造所を借り下げて自己に其の事業を経営し、二十年に至っては之を払い下げて自家の所有となし、二十一年には之を株式組織に改めて品川硝子製造会社と称し、技手をドイツより聘し本国において始めてビール瓶の製造を試みた。同二十一年に又、日本熟皮会社を神戸に設立して自ら其の社長となった。
★造靴所の開設。
同二十九年には分業製靴法を採用するの目的で技師(注:関根忠吉)を米国に派遣し、其の調査及び機械の購入をなさしめ、同三十年遂に北品川において新たに造靴場を開設し専ら青年の靴工を養成し、広く仕入靴を供給するの目的をもって靴の製造を開始し、改良靴の名称をもって発売した。
★日本製靴株式会社の創立。
氏は又兼ねて日本の軍用靴を器械製に改むる必要を唱道し、其の桜組工場において率先して器械を装置し試みに其の製造をして見たが、其の結果が良好であったので、明治三十五年一月に至り遂に其の同業大倉喜八郎、賀田金三郎等諸氏と謀って日本製靴株式会社を創立した。日露の戦争に際し軍靴の需用は実に多大であったが、遺憾なく之を充足することのできたのは、この会社の力が興って多かったのである。」

『職工新聞』(明治四十一年五月十日付け)





◎工業界の偉人・故西村勝三翁(三)
・・・万歳生命保険会社専務取締役 藤村義苗君談・・・

・・・・・
★桜組製渋所。
明治三十六年六月、北海道勇払郡早来に桜組製渋所を開設した。蓋し皮革製造の別原料である渋液製造は製革に必要の副業であって、前後二回其の製造を開始したが充分の成績を得なかった。そこで氏は養子西村謙吉及び技師中島宣を米国に渡航せしめて、更に其の調査と器械の購入をなさしめ、地を?樹の相当な北海道早来に相して工場を起こし、爾来予定の成績を得て大いに製革業の上に利便を加えることができた。
★日本皮革株式会社の創立。
同三十九年十二月、氏は多年製革業を営み専ら陸海軍の需要に供給した。桜組、大倉組、東京製皮合資会社等を合同し其の規模を拡張して斯業の改良進歩を計ることが時勢の進運に伴う必要の措置なるを認め、大倉喜八郎、賀田金三郎諸氏と共に日本皮革株式会社を創立することを画策し其の発起人となったが、氏は遂に其の大成を見ずして白玉楼中の人となってしまった。

●以上其の大略を記する所によって見ても、氏が実に日本における工業の開山であり率先者であり且つ又其の恩人であることが明らかであろうと思う。其の社会に率先して常に新方面に発達し努力活動して国家有用の事業興起せしむる進取的の精神は一生を通じて変わることがなかった。氏が数多起こした事業の中で遂に失敗に帰したものも少なくない。特に明治十年の頃から段々失敗を重ねて二十年の頃には遂に其の極に達し、負債山積の有様で、半生は伊勢勝の旦那とチヤホヤしていたものまでが其の門に寄り付かぬこととなってしまった。斯かる有為転変の間にあっても、氏は毫も屈せず到頭其の頽勢を挽回して最後の勝利を得たのである。氏の失敗した原因は蓋し其の事業が世と伴わず、常に十歩も百歩も世に先んじていたからであろうと思われたるが、又一つには草創の際において人物を得ることが出来ず、各種の事業を起こしていながら一身之に当たったからであろうとも思われる。」

『職工新聞』(明治四十一年五月二十五日付け)








◎工業界の偉人・故西村勝三翁(四)
・・・万歳生命保険会社専務取締役 藤村義苗君談・・・

・・・・・しかし、氏が事業の失敗は世の事業家の失敗と一種趣を異にする所がある。多くの事業家は失敗して資産を失うと同時に世に対して何をも残さぬ。かえって社会に害を及ぼすことがあるが、氏自身は失敗はしても世の中には少なからぬ利益をあたえておる。氏は又職工のためにも大いに力を尽くし気風を矯正し其の体面を保たしめた。自ら大日本靴工同盟会を興し終身会長となったのは以って氏が彼らのために尽くす所あったことが知られる。日清戦争中一時激増した靴工が戦後にわかに其の職を失ったので氏は彼らを奨励して米国桑港に出稼ぎせしむる事に力を尽くし、今や彼の地における日本靴工の数は二百余名の多きに達し、加州日本人靴工同盟会を組織し大日本靴工同盟会と気脈を通じて日本職工の面目を保持しておるということである。氏が彼ら職工のために心を尽くすや、死の病床にある時までも、その枕頭に侍する人に向かいて言った。『職工に対して今少し賃金を増やしてやらねばならぬ。しかし、職工等にもよく教訓して今少し能く働くようにしなければならない。西洋の職工は日曜などには大抵朝寝するが多い。これは平生一生懸命に働くから休暇の日に十分安息するの必要があるからである。然るに日本の職工は日曜には却って平生より早起きをして諸方を遊び歩いておる。つまり平常疲労せぬから殊更に休息を求むるの必要がないのであろう。これは是非改良しなければならない。』之れは最近の逸話であるが、氏が直情径行的の性格を示しておるから序でに記しておこう。氏、かつて何か用事があって霞ヶ関の方から永田町の方へ行った。すると途中に坂がある。長い坂で、その中程が平面でこれを過ぎると亦坂になっておるのであるが、あたかも土工が数多集まって土を運んでは平面の所に持って来て一面の大斜面的長坂となさんとしておるのである。氏はこれを見て大いに怒って言う。『東京市は何をしておるのであるか。わざわざ中間に息をつく平面をこしらえてあるのに、之を一面の長坂とするのは不都合極まる』氏は直ちに尾崎市長を訪ふて之れを詰る。市長は『此の頃市長となったばかりであるから一向そんなことは知りません』と言って謝したということである。坂道の善悪は何れであるか知らないが、自から思ったことは直ぐに之を行なうという事が氏の気象であった(おわり)」

『職工新聞』(明治四十一年六月十日付け)












◎品川白煉瓦株式会社の盛況(上)・・・・・▲創立は故西村勝三翁で明治八年▲原料地積千二百町歩製産額一ヵ年三千万個▲職工三百五十人十年以上勤績者二十八人
◎耐火煉瓦の鼻祖
として品川御殿山の麓に本社を設け、其の製品良好にして大いに江湖の高評を博しつつあるは品川白煉瓦株式会社である。
◎本社工場の外に
支社を大阪(南区木津三島町)に支工場を湯本(福島県磐城国石城郡湯本)小名浜(同上小名浜)に分工場及び鉱業所を赤井(同上赤井)に設け、敷地約一万坪建物約七千坪を有し原料採掘地は各県に渉り千余町歩に及ぶ。其の製産力一ヵ年二千万個の多きに達する盛況である。
◎未来のウィナベルガー
たるを自任して重役初め技師長技手職工が殆んど一身を犠牲として活動する目覚しさは多くの会社で見ることの出来ぬ働きぶりである。
◎ウィナベルガー
とはそもそも何ぞ。曰く。オーストリア、ウィーンに在る一大粘土工業会社のことにて、職工五千人を有し、非常なる製産力ある欧州唯一の粘土工業会社である。
◎創立は遠く三十三年前
斯くのごとき品川白煉瓦の盛況も所謂成るの日に成るに非ずして、今より三十三年前即ち明治八年の創設で、この長日月間には一張一弛世の潮流に従い浮沈せしも忍耐と熱心とを以って戦ふたのである。
◎嗚呼故伊勢勝翁
公益事業を以って終身の任としたる武士的工業家の模型たる故伊勢勝西村勝三翁はこの会社の創設者経営者で、翁が明治八年頃東京府の瓦斯事業の肝煎役をしていた頃、フランス国の技師で工学士のベレゲレン氏から耐火煉瓦製造の必要なこと其の化学工業の基礎たることを聞き、明敏と勇断に富む翁は直ちに起って深川伊勢勝白煉瓦工場を起こし、二十年十月には品川に移して品川白煉瓦製造所とし、三十三年九月には合資会社に、三十六年六月には株式会社とした。即ち我が国における耐火煉瓦製造の嚆矢である。
◎何時も時勢より数歩進む
元来翁は見識の高い人で何時も事業が時勢より一歩も二歩も進んで居るから、何を起こしても先ず時勢と戦う必要があるので其の困難は一通りでない。今日ですら耐火煉瓦の何たるを知る人が少ない世の中に、三十年も前にこの種の事業を起こすのであるから技術も拙い。随って予期した製品も出来ぬ。よし出来ても販路が少ない。殆んど十年間は暗黒時代であったが、其の苦境の中に楽園が生まれ、漸次技術も精巧に販路も拡張され殊に日清北清日露の戦役を経て基礎はいよいよ確実となり、且つ又役員や技師や職工の熱心忠実はよく翁の意志をたすけて今日の盛況を来たしたのである。
◎生徒組織及び株主組織
ここに翁の独特の?画策として、同会社に雇はるべき職工は凡て生徒として一定の契約の下に煉瓦製造会社に入学練習し居る組立とし、規律と奨励とを以って養成し、給料及び半季毎の賞与の外、会社の株券を興えて職工即ち株主の如き組織とし、会社役員、職工とは倶に其の利益を一にして切っても切れぬ縁としてあるから、其の働きぶりに影日向がない。是は翁が人を使うに巧みな一証である。
◎十年勤続職工二十八人
されば同会社の生徒(職工)が三百五十人ある中で十ヵ年以上勤続して居る熟練なる模範職工が二十八人の多数に上って居るは、他会社で容易に見ることの出来ぬ現象である。其の氏名は
稲垣小三郎(本社工長) 飯田幸次郎(大阪支社工長) 
布施谷次郎(湯本支工場工長) 三上梅吉(赤井分工場工長) 
廣川数知 新実菊次 日馬吉五郎 小川徳次郎 中村喜六 新実鶴吉 
山本福太郎 市野安太郎 東條栄吉 田中喜三郎 中村奥二郎 三澤民吉 松川梅吉 布施権蔵 塚越徳次郎 山中五郎吉 稲垣巳之吉 山本鉄太郎 前川芳太郎 山岸豊吉 畔柳房吉 上野代徳次郎 大山卯吉 吉田常蔵
計二十八人。」

『職工新聞』(明治四十一年七月五日付け)





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◎品川白煉瓦株式会社の盛況(下)・・・・・
◎耐火煉瓦
といふは主に冶金工業や化学工業等に使う窯炉」

『職工新聞』(明治四十一年七月十五日付け)















品川白煉瓦株式会社本社

『職工新聞』(明治41年7月5日付け)






品川白煉瓦株式会社大阪支社

『職工新聞』(明治41年7月5日付け)






品川白煉瓦株式会社小名浜分工場

『職工新聞』(明治41年7月15日付け)







川白煉瓦株式会社赤井分工場


『職工新聞』(明治41年7月15日付け)










明治42年
明治43年
明治44年



◎本邦最初の造船史(故西村勝三氏の素志貫徹す)ー所謂士魂商才・・・・・
造船史の名と相連関して想起せらるるは西村勝三氏である。氏は旧佐倉藩士にして
宮中顧問官西村茂樹氏の弟だが、維新前、感ずる所ありて決然身を実業界に投じた。所謂士魂商才の好?型とも言うべき人で、初めは銃砲弾薬の業に従ったが、その後大村兵部大輔に知られ勧めによって軍靴製造の業を起こし、伊勢勝名をして斯界に高からしたものである。引き続き西洋製革の業を始めたが、之れ亦た桜組として世に喧伝され、現に日本製革会社の一部となっているものである。これ等の外、氏の専ら??した事業は実に多く耐火煉瓦(品川白煉瓦株式会社の前身)東京瓦?、グラス、莫大小製造、洋服裁縫業等にも従事したが、四十年一月、七十一歳を以って?然として没した。氏が実業における功労は生前???章を授けられ正六位に叙せられ、没するに及びて勲五等に叙せられたのによっても、氏が斯界における効蹟如何に大なるかは推察するに十分だ。」

『読売新聞』(明治四十四年三月十五日付け)







明治45年







●天津租界地地図(明治39年)の一画に「桜組出張所」の印を発見。
『天津居留民団二十周年記念誌』(天津居留民団 1930年)

●桜組出張所(日本租界) 明治39年3月4日 代表者:半澤賢輔
『北清之栞』(川畑竹馬 明治39年12月)





ー西村勝三文献一覧ー
製靴図集、商略必勝頓智の商人、当代の実業家人物の解剖、東洋実業家評伝、日本新豪傑伝、日本新立志伝、日本名望家逸事、明治閨秀美譚、明治百商伝、明治立志伝、名流百話、立志百話、京浜所在銅像写真









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