福地源一郎



明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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「◎福地源一郎氏逝去・・・・・文壇の老雄福地源一郎氏は昨四日午前二時五十分竟に病死したり。氏は長崎の儒者福地?庵の男にして天保十二年三月二十三日を以て生まれ幼より才名あり。つとに蘭学を修め万延元年外国奉行支配同心となり竹内下野守松平石見守等に随行してはじめに欧州に赴き慶應元年柴田日向守の洋行に際しても亦之に随行したり。慶應三年既に江湖新聞を発行し其の第四回の洋行より帰りて東京日日新聞社長となれるは明治七年にして名声隆隆、東京府会議長たり。池の端の御前たり。文壇に政壇に雄飛せしも晩年雌伏の已むを得ざるに会して梨園に隠れ傍ら幕末史に筆を執りしが東京市民永く失意の人を棄てず。明治三十七年其の選ぶ所となりて代議士となり老後の思い出再び政界に一花咲かせんとせしに糖尿病に加ふるに喘息を以てし肺炎を発して竟に起たず。享年六十六。知ると知らざるとを問わず満腹の悼意を?して老才子の永眠を弔う者引きも切らず葬儀は来八日午後一時芝愛宕町三丁目十四番地自宅出棺増上寺において執行の上谷中に葬るはず。嗚呼我桜痴居士逝けり。」

『東京朝日新聞』(明治39年1月5日付け)







『東京朝日新聞』(明治39年1月5日付け)