安部磯雄


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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「◎安部磯雄氏・・・・・(社会党顧問)十日午後二時半、新宿区新小川町二ノ十江戸川アパートの自室で老衰のため死去。八十五歳。福岡の出身。同志社を卒業後米国に留学。帰朝後同志社、早大教授を歴任。社会運動の先覚者として旧社大党首にも就任。「社会問題概論」その他著書多く、早大野球部長以来日本野球界に大きな貢献をした。告別式は九段坂上富士見町教会で十四日午後一時から葬儀、二時から一般告別式を行う。」

『東京朝日新聞』(昭和24年2月11日付け)















「◎談笑のうちに別れ話・安部さん静かに去る・・・・・」

『東京朝日新聞』(昭和15年3月22日付け)
























「◎安部先生遂に早大を去らん/社会民衆党の首領として/大学では極力留任策・・・・・」

『東京朝日新聞』(昭和2年1月14日付け)























「◎森戸事件の公判廷に佐々木博士安部教授起つ・・・・・」

『東京朝日新聞』(大正9年1月29日付け)








「◎早大選手を送る・・・・・早大選手十四名は安部部長に引率せられて一昨二十二日九時半新橋駅から横浜に向けて出発した。見送りの人々には高田学長田原予科長押川春浪水谷竹紫慶應の佐々木大学の三島学習院の山澤その他選手の父兄親戚朋友は勿論の事早稲田中学実業学校の選手学生凡そ千名吉岡将軍の音頭に連れて三度万歳を連呼する中汽車は動き出した。かくて横浜に着するや午後一時四十分というに地洋丸に乗り込む室は三、四、二百十五の三個で各自その部屋部屋に落ち着く暇も与えず同時に押し掛けた見送りの学生百数十名に四方八方から取り囲まれ甲板上は彼方にも此方にも快談壮語の花が咲く花と言えば一行の胸間には早大ボート部の贈れる赤リボン附き白の造花が美しくかかって紺セル金ボタンの制服が一層引き立って見える。安部先生は例によって質素なる英国紳士風の縞背広に赤皮靴といういでたちが如何にも忙しそう。征途に上れる戦士それを見送る同窓の誰彼時間迫るに話柄は尽きず肩を打って、おい、帰る時には沢山お土産を持って来いよ、よし、大丈夫だと互いに名残りを惜しむ間にはや出帆定刻の三時はしごは外される。船は動く。見送りの面々は早大の校旗を振って言合わさねど一斉に叫ぶ。万歳歓呼横浜新港にしばしは鳴も止まなかった。祈るらく早稲田健児の上に武運あれ。」

『東京朝日新聞』(明治43年6月24日付け)

















二列目中央が安部磯雄監督

「◎早稲田の健児・・・・・」

『東京朝日新聞』(明治38年4月5日付け)