堺利彦


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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西川光二郎(右)、堺利彦(上)、石川三四郎(下)、幸徳秋水(左)

『東京朝日新聞』(昭和3年9月10日付け)














「◎堺利彦氏逝く(者か主義運動の草分)・・・・・わが国社会主義運動の草分けで社会大衆党顧問、市会議員枯川堺利彦氏は一昨年十二月二日脳溢血の発作以来再び起こたず麹町区八ノ二十四の自宅で療養中であったが、二十二日から少し苦しみ始め二十三日午前七時脳溢血を起こしたので直ちに近所にいる愛嬢眞柄女史を呼び奥山医師も駆けつけてカンフル注射、食塩水注射、リンゲル液注射等を施し手当を加えたが全く意識なく九時ごろ親友荒畑寒村氏の駆けつけた時もゴーゴーと大きないびきを立てて昏睡状態であった。十時二十分ため子夫人や眞柄女史愛婿高瀬清氏に守られつつ遂に死去した。病室は二階四畳半で毛布の床の上に横たわり銘仙の羽織をフワリときせてあるが長い病で身体の厚みがない。白足袋をはいた脚も細くやせて枕頭には白いフリージャの花がさびしく飾られてあり壁にかかる肖像画のようなきかぬ気の鋭い面影がもうすっかり失せていた。山川菊枝、島中雄三、和田操、吉川守?氏等が続々見舞に来て賑やかだがさすがに苦労を共にしたため子夫人は目を泣きはらしていた。葬儀は二十七日午後一時から青山斎場で行うはず。
◎苦闘六十余年・・・・・堺利彦氏は明治三年十一月福岡県?津の城下に小笠原藩士の長男として生まれた。郷里の豊津普通中学を卒へて上京し一高の前身たる第一高等中学校に学んだが月謝不納から退学し大阪の小学教員を振り出しに新聞界、文学界に足を踏み入れ転々と職業を変えていたが明治三十二年万朝報に入社。ここで幸徳秋水と交わり、安部磯雄氏、片山潜氏を知り社会主義運動へと進んだ。これには内村鑑三氏等のキリスト教社会主義の洗礼受けたのが契機をなしていた。明治三十六年日露戦争の勃発に際しては幸徳秋水、内村鑑三氏等と共に非戦論唱えて万朝報を去り「平民新聞」を発刊し相変わらず戦争反対を唱え三十九年には日本社会党を組織し社会主義運動の前衛をつとめたが四十一年いわゆる赤旗事件で入獄して却って大逆事件の厄を逃れ、出獄後は火の消えたような無産陣営の中に「?文社」を興して生計を立てつつ山川均、大杉栄等と孤?を守り続けて来た。大正十二年には第一次共産党事件に連座したがやがて無産政治運動の実行へ志し昭和四年日本大衆党から推されて東京市議に当選し全国労農大衆党が結成されるや顧問として長老的役割を演じていた。晩年はじめて郷党に迎えられ豊津在に農民学校を起こしまた一生を総決算する意味から「自伝的に見た社会運動史」の筆をとっていたが完成に至らずして逝ったのは惜しまれている。」

『東京朝日新聞』(昭和8年1月24日付け)


















「◎故堺利彦氏の無宗教葬(けふ青山の盛儀)・・・・・堺利彦氏の無宗教告別式は二十七日午後一時から青山斎場で執行。定刻前会場正面には故人の油絵が赤旗に包まれた遺骨の上に安置され、その左右にソヴィエト大使館をはじめ各方面から贈られた深紅や雪白の花環。闘争の歴史を物語る各労働団体の新旧雑多な赤旗組合旗が林立。この情景の中にたね子未亡人愛娘眞柄女史を中心にわが国共産団体を代表するほとんどの人々、文筆の人々を全部動員したかの如く、それに労働者諸君で会場は入り切れぬ雑踏。正服警官に囲まれて入場した労働者の一団は赤旗の歌を高唱。これに和しプロ音楽家同盟員はインターナショナル等の奏楽を以てする。定刻青山署と警視庁の厳戒裏に司会者岸部?次氏の挨拶に続き山川均氏の故人の死を悼む切々たる演説後黙祷一分間。次いで荒畑寒村氏故人の闘争経歴を物語り各代表の弔詞にうつり社会大衆党代表安部磯雄氏、古い同志を代表して石川三四郎氏、旧友を代表して馬場孤蝶、長谷川如是閑、鈴木茂三郎、葉山嘉樹氏等が各弔辞をのべた。そして遺族を代表して眞柄女史が挨拶をのべ、山川葬儀委員代表の挨拶後再び黙祷一分。かくて赤旗の歌の高唱裏に午後三時終了した。」

『東京朝日新聞』(昭和8年1月28日付け)





















「◎故堺利彦氏無宗教告別式(二十七日青山で)・・・・・故堺利彦氏の葬儀は二十七日午後一時から青山斎場で無宗教の告別式をやり尚葬儀委員長は山川均氏委員は安部磯雄、麻生久、上司小剣、荒畑寒村、石川三四郎、山川菊枝、赤松常子、大森義太郎外数氏である。」

『東京朝日新聞』(昭和8年1月24日付け)