木下尚江


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!

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「◎静坐に隠れて十年世の中を忘れた滝野川の隠者木下尚江氏/私の過去はすべてが虚偽実世間に何等の興味もない・・・・・その頃の「火の柱」や「夫の自白」は木下尚江氏の意義ある作として文壇の上に思想界にすくなくも清新な精神をつぎ込んだ。ある時は霊界の聖壇に、ある時は社会党の結社に、氏の行くべき途には常に熱を伴っていた。その後まさに十年、杳として世に隠れている生活の苦悩と思想の混惑とに絡はる現代をさながら超越したよう。「私は今日の社会実世間に対して興味も持たなければ刺激も受けない。交渉もなければ更に共鳴するところもない」氏は昨日の朝府下滝野川の蝉時雨降る閑寂の居に端坐しながら語り出した。「私は静坐即生活である。これが一切だ。私が静坐を始めたのはある時分からで十年の今日、自ら精神上にいかなる変化を来たしたか自己批評はされ得ない。しかし私は師岡田さんその者、即ち人間の味に興味を持つ者で世の静坐そのものに信仰を抱くのとは全然異なっておる。私は新聞に遠ざかり雑誌を避け、研究を回避しておる。なぜだろう、いかにもいかにも解き難い謎だが、私は無智である。無識になって人間の生存に意義あらしめるというも私の如きいはば一介の寄食者には何の意義もない。生活のイズムもない。経て来た途を見ると虚偽の生活であった。私の作物を読んだ人に対してすまぬ。あの時分は野心満々と燃えて、その野心を充たさんがための方便であった。思想の変化は多くの場合に目的を達するために毒念を含ました方便である。私は毒を流した。社会主義者と睨まれ基督信者と見られた。撞着の生活をしていた。私は幾多の人を毒して来た。あの後は故綱島?川や徳富蘆花とある主義の雑誌刊行を企てたがそれもよした。伊香保に籠って本居宣長と賀茂真淵を預言者として評伝に筆を取ったが半ばにして稿を破った。私は何事をか書きたいとの念も萌さぬ。故意に筆取れば偽りが含まれる。熟して落ちる木の実の自然味と同じく態とらいでは面白くない。私は全く今日の生存が自ら解らぬ。信仰もなければ米の騰貴も没交渉である。私は真に心の底から溢れる雫の一手滴たり共零れたらいかに悦ばしいことかと思わないこともない。」

『東京朝日新聞』(大正8年7月22日付け)

















「◎二十年振りに穴を出る尚江氏/昔ながらの熱を見せて恩師の為めに演説会へ/薄い髪に感激を語る・・・・・新聞記者として、弁護士、小説家として又社会主義者としてかつて鳴らした木下尚江氏は日露戦後全く社会か隠退し、郊外三河島や西が原に仙人のような生活を営んでいたが恩師島田三郎翁の没後吉野作造、山室軍平氏等と共に島田翁の全集編纂に携わり、十六日には神田青年会館で催される記念講演会に出演、氏独特の熱弁を揮うとの事だが之について西が原の寓居に氏を訪ぬると氏はさも感慨たえないような面持ちで「そうさね随分久しぶりであんな所へ出るね青年会館の焼跡がどうなっているかさへ僕は知らないがあすこは今から十七年前僕が三十歳の時に東京で始めて演説というものをやった場所だね。その時も島田先生に連れられて出たが問題は廃娼演説だったよ。その後例の足尾鉱毒問題や非戦論やをやったもんだが演説屋を破棄して以来もう二十年だからね。その発祥の地たる青年会館で先生の記念講演会をやるとは実に感慨無量だね」うすくなった頭髪を撫で廻した氏の眼には昔ながらの熱と光が宿っていた。」

『東京朝日新聞』(大正13年6月16日付け)

























「◎木下尚江氏・・・・・明治思想界の鬼才として鳴らした木下尚江翁は予て胃癌を病み隠棲の滝野川区西が原六九の自宅で療養中であったが五日午後四時四十五分遂に死去した。享年六十九。翁は松本市に生まれ早大に学び故郷で弁護士を開業したが後島田三郎氏の下に東京毎日新聞の主筆となり明治三十四年には田中正造翁を助けて足尾の鉱毒問題に奔走日本における最初の無産政党たる日本社会党を組織したり「平民新聞」の発行に加わったのもこのころのことで、間もなく同志と意見を異にして決別。新紀元社から「静坐」の所謂「無為の道」に入り壁に向かっての習書生活が今日まで続いた。臨終の床で「何一つもたでゆくこそ故郷の無為の国への土産なるらん」と辞世を残し、遺子正造君へは「一個の良民たれ」と翁らしい一言を残した。葬儀は遺言によって執行せず七日午後二時日暮里火葬場で荼毘にふすると。」

『東京朝日新聞』(昭和12年11月6日付け)