石川啄木




明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!

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「◎このごろ(啄木)・・・・・
○ぢりぢりと蝋燭の燃えつくるごとく夜となりたる大晦日かな
あたらしき瀬戸の火鉢によりかかり眼閉ぢ眼を開け時を惜めり
われとわが心に負へるいろいろの負めを思う除夜のかなしみ
何となく明日はよき事あるごとく思う心を叱りて眠る
○青塗りの瀬戸の火鉢を撫でてみぬ心ゆるめる元日の朝
過ぎゆける一年の疲れ出でしものか元日というにうとうと眠し
それとなくその由るところ悲しまる元日の午後の眠たき心
ぢっとして蜜柑のつゆに染まりたる爪をみつむる心もとなさ」

『東京朝日新聞』(明治44年1月8日付け)







「◎石川啄木氏逝く(薄命なる青年詩人)・・・・・新詩壇の天才として将来に望みを?せられたる本社員啄木石川一氏は久しく肺患にて治療中なりしが十三日午前九時半小石川区久?町七十四番地?居にて逝去せり。享年二十七。氏は岩手県岩手郡渋民村に生まれ神童の?高く盛岡中学校に在学中既に文才全校を圧し将来天才文学者たるべしとの聞こえありしが中途退学して北海道に渡り函館、小樽、札幌、釧路等にて新聞社に入り其の後帰郷して小学校に教鞭を執りたることあり。四十一年五月出京して本社に入りたるが昨年二月腹膜炎に罹りて大学病院に入院し同三月中旬退院し次第に快方に向かいたるも涼風肌に快いころ又もや肋膜を侵されて病状裡の人となれり。本年三月七日母堂を失いてより多感の詩人が心緒為に傷つきて病俄かに重り以後は日夕病床に唯一の娯楽となし居りし新聞雑誌をだに見る能はず詩作さえ廃し唯妻子の枕辺に在りてつれづれを慰め看護に手を尽くすのみなりき。著書には小説島影、歌集あこがれ、一握の砂等あり。あこがれ中の落ちぐしは確かに天才詩人たるの素質を証して余りある者なりとは鴎外博士の批評なるが一握の砂は清新の調と奔放の才を発揮せり。尚来月発行すべき自然第一号は啄木追悼号と為すべしという。」

『東京朝日新聞』(明治45年4月14日付け)

















『東京朝日新聞』(明治45年4月15日付け)













「◎石川啄木氏葬儀(文士詩人の会葬)・・・・・社員故啄木石川一氏の葬儀は昨日午前十時浅草松清町なる等光寺において執行せられた。途中葬列を廃して未亡人せつ子や佐藤眞一土岐善麿その他の人々柩に付き添い予め同寺に参着。柩は狭い本堂に淋しく置かれた。やがて会葬者はポツポツ集まる。夏目漱石、森田草平、相馬御風、人見東明、木下杢太郎、北原白秋、山本?などいう先輩やら親友やらの諸氏が見える。殿には佐々木信綱博士が来られる。それに本社員の誰彼を加えて僅かに四十五名が淋しい顔を合わせた。人は少ないが心からの同情者のみである。程なく導師土岐静師は三名の若い僧侶を具して淋しく読経する。終って白衣の未亡人は可憐なる愛嬢京子を携さえて焼香した。香煙の影に合掌せる母子の姿は多感なる若き詩人の柩と相対して淋しい人生の謎である。四五十名はひとしく泣かされた。続いて一同の焼香に式は終わって柩は大遠忌の賑々しい本願寺内を五六の人に護られつつ町屋の火葬場へ淋しくかつがれて行った。」

『東京朝日新聞』(明治45年4月16日付け)














「◎啄木氏を悼む(与謝野晶子)・・・・・
人来たり啄木死ぬと語りけり遠方ひとはまだ知らざらむ
終りまでもののくさりをつたひゆくようにしては変遷をとく
しら玉は黒き袋にかくれたり吾が啄木はあらずこの世に
そのひとつビオロンの糸妻のため君が買いしをねたく思ひし」

『東京朝日新聞』(明治45年4月17日付け)














「◎石川啄木追悼会(思い出づる薄幸の詩人)・・・・・▲上野浅草あたり、昨日今日散り初めし桜花の一片二片に、逝く春の名残りを惜しむか、都の隅々より人出賑やかに陽気なるが中に、ここ東本願寺境内なる等光寺にては、齢若うして逝ける薄幸の詩人石川啄木氏の為に、しめやかなる追悼会の催しあり。
▲十三日午後一時、来会する者は与謝野寛、伊藤左千夫、前田夕暮、北原白秋、相馬御風、平出露花、土岐哀果の諸氏を始め、故人が在りし世の面影を懐かしむ人々総べて四十余名、住職等が?する南無阿弥陀仏の声や、麗らかなる春の日にして、何となく物を思はしむ。
▲勤行終わりて後茶話会あり。金田一京介氏は其の少年時代を与謝野寛氏は其の明星を、澤田天峰氏は其の北海道時代を、相馬御風氏は其の芸術的方面を、平出露花氏は其のスバル時代を、加藤四郎氏は其の東京朝日社員時代を、伊藤左千夫氏は其の歌人としての特色を何れも深く同情を以て語れり。
▲啄木逝って一年、啄木遺稿、啄木歌集の出づべき日近うして此の集会あり。何れも故人が年若うして思慮の老熟せる、?介にして奇行逸話に富みたる、在来の歌風を破りて、実感を謳うを生命とせるなど、とりどりの想い出尽きず、日黄昏んとする頃散会せり。」

『東京朝日新聞』(大正2年4月14日付け)






















写真は雪の上を曳き運ばれた碑石と啄木の面影

「◎郷里へ帰る啄木/記念碑の除幕式/この十三日満十年の忌日に桜芽ぐむ渋民村で・・・・・桜散る四月十三日、薄幸の詩人石川啄木が死んで満十年になる。その遺骨は浅草松清町の等光寺に葬られ、墓標は彼が放浪の地となる北海道函館の立待岬に立てられて、追慕の念を深くしているが彼の郷里なる岩手県出身の青年達は、『石をもて追はるるごとく』去った望郷の詩人啄木を『郷里に還せ』と叫んで、まづ記念碑建立のため啄木会を起こし故人生前の親友達なる先輩も力を添えて盛岡に東京に講演会を開催し忌日の十三日、いよいよその除幕式を挙行することとなった建設地は盛岡から先き数駅好摩から渋民村へ通う路傍の丘で、北上川の流域一帯が眼下に展けている碑は高さ一丈五尺、巾四尺五寸の花崗岩で「やはらかに柳青める北上の岸部目にみゆ泣けと如くに」という歌集の中の一首が明朝活字体で大きく三行に刻まれた記念碑建設の議が伝わると、郷里の人々は競ってその実現に努め、丘も石も皆それぞれ寄付することとなった。石は合羽澤という断崖上のが選ばれ、?の深々と氷った三月六日渋民村の村民二百五十余名は昼食鉄槌持参で現場に集合し、橇にに乗せて運んだ。折りからの月夜に昼も夜も休みなく、遂に三日がかりで曳いてきたという。この延人員六百を超えその昔啄木が代用教員としてつとめたことのある渋民村小学校の校長や村長初め主人のいない家はカミさんが、大人の出られない家では子供が、村民総出の意気込み。」

『東京朝日新聞』(大正11年4月11日付け)