田口卯吉



明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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『東京朝日新聞』(明治38年4月14日付け)








「◎田口卯吉氏逝去・・・・・中耳炎と慢性腎臓炎とを併発せる法学博士田口卯吉氏は薬石其の効を奏せず終に一昨夜十一時十五分を以て本郷西片町の自宅において逝去したり。享年五十一。明後十七日午後一時出棺。本郷中央会堂において葬儀を執行し谷中天王寺墓地に埋葬する由。博士名は健、字は子玉、鼎軒と号す田口氏、通称は卯吉、後専ら通称を用ふ。徳川氏の世臣にして従士に班する三代の祖慎左衛門は儒官佐藤一斎の子にして入って田口氏を継ぐ。即ち博士の祖父なり。男子なし。旗下の士西山氏の子?郎を養いて長女町子に配し家を継がしむ。博士はその長子なり。安政二年四月二十九日を以て江戸に生まる。五歳にして父を喪い家道艱難にして教育?育一に母氏の手に頼れり。慶應二年幕府九番組の徒士となる。明治元年徳川氏大政を奉還し幕臣多く士籍を解かる。博士の一家横浜に移りて商戸に編す。徳川氏静岡に封ぜらるるに及び博士帰藩し沼津に移り小学に入りついで兵学校の試験に及第す。博士の志軍医とならんとするにあり。是より先き林紀氏医学及び軍医制度をオランダに修め帰りて静岡病院長となれり。沼津兵学校医学生若干名を林氏に託して静岡に学ばしむ。博士その一人なり。既にして封建廃せられ藩の兵学校陸軍省の管轄に帰し博士も亦東京に出でて他の業を修めんとす。大蔵省翻訳局を置いて財政必要の書を訳し兼ねて省内諸寮に用ふべき学生を教育す。氏幼年より教えを受けたる乙骨太郎乙氏其の教員に挙げられ君を其の生員に薦む試みられて及第し此に英語及び経済学研究の機会を得たり。三年卒業して大蔵省紙幣寮に出仕す。然れども博士の宿志は士官に存らずして独立の市民たるに在り。故を以て約束年限の勤務を終わり明治十一年官を辞す。此の間日本経済論を著して自由貿易の説を唱ふ。是れ処女作なりといえども其後来学説政論の基礎早く此に樹立せり。十二年望月二郎等諸氏と共に経済雑誌社を創立し東京経済雑誌を刊行し博士其の社長として主事を兼ね当時勃興せる一種の保護特権専売の風潮に抗し居然自由貿易論の中堅となれり。雑誌刊行の傍ら経済学協会を起こして事理と実地を研究するの機関として明治十二年以来連続して今日に至る。博士又?鳴社に入りて自由立憲主義を鼓吹し自由新聞に助筆して専ら経済政治の論文を担任せり。博士は唯言論の士たるに満足せず其の持論を事業に施さんと欲し実業の方面には株式取引所肝?となり両毛鉄道会社を創立し独立施設鉄道会社の模範となさんとし推されて其の社長となり南島商会を起こして早く南洋貿易の先駆となれり。公務の方面には府会区会市会の各議員となり又本郷教育会長に挙げられ府会常置委員市参事会員工商高等会議員商業会議所特別会員博覧会事務員貨幣制度調査委員となり二十七年東京市より選ばれて衆議院議員となり爾後毎回当選し三十二年法学博士の学位を授与せらる。三十三年団?の乱後北清を視察し露兵の支那非職員を暴?せる実情を見て憤慨し帰りて之を同志に報告し同志連署の文を草して之を列国人に訴えたり。博士の対露観念此の際に一変せり。三十七年六月満州占領地を視察す。博士の政治実業二界に活動せる其の大略かくの如し。然れども其の終始一貫して専ら力を尽くせるは言論文章を以て経済的知識を社会に弘布するに在り。其の経済雑誌を刊行すること二十七年、其の間処女作日本経済論を初めとして日本開化小史、支那開化小史、経済策、続経済策、洋銀排除論、内地雑居と居留地制度、条約改正論、商業詩歌、楽天録、古代研究等の著作あり。其の史学に関する論文は史海に連なりて掲げられ博士の監督によりて雑誌社友の編纂に係わる者に日本人名辞書、日本社会事業あり。翻訳には政治類典等あり。類聚には国史大系、続国史大系、再刊には辞書類聚あり。写書の刊行には徳川実記、続徳川実記、群書類従、続郡書類従等あり。」


『東京朝日新聞』(明治38年4月15日付け)