津田梅子


明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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「◎津田梅子女史突如逝去す/読書中に卒倒し遂に起たず/今日帰郷の上発喪・・・・・【鎌倉電話】東京麹町五番町津田英学熟長津田梅子女史はかねて糖尿病を患い東京で療養中のところやや快方に赴いたので先月末鎌倉町極楽寺音無橋畔五三八の女史の別荘に来たりなお静養中であったが、十五日午後平常の通り夕刻晩餐をすまし書斎にて読書中同九時突如脳溢血を起こして卒倒したので家人は仰天し直ちに竹久病院長を招き応急手当てを加えたが遂に効なくそのまま逝去した。この報により東京から家人および三輪田元道氏同夫人しげ子、早川干吉郎氏夫人、山川菊栄夫人、その他鎌倉在住の教え子たちが打ち集まり悲しみのうちに万事取りかたづけて通夜をなし十七日午後一時遺骸は自動車で東京の本宅に還り改めて喪を発するはずであるが、多分熟葬として校友生徒等の手で万端を行われるであろう。女史はつとに育英のことに努め多くの女子を教導して功労あることは一般に知らるるところ、行年六十六、その死は各方面で深く悼まれている。
◎女子教育界の大功労者/女子の略歴・・・・・津田梅子女史は我が国キリスト教界の先覚者であり勤農家として歴史的に名を知られている。佐倉の藩士津田仙の次女に生まれた。明治四年即ち女子が七歳の年に文部省から米国へ留学を命ぜられた。帰朝後宮内省御用係、華族女学校教授、女子高等師範学校教授の職にありその間二度も米国へ出張命ぜられた。津田英学熟を創めたのは明治三十三年で創立実に三十年、あれだけの内容とあれだけの歴史がありながら今に堅実なしっとりした機会を保存しているところは女史の人格の致すところであろう。我国女子教育の大功労者で御大典に際して勲五等に叙せられたことは世間周知の事実である。」

『東京朝日新聞』(昭和4年8月18日付け)











『東京朝日新聞』(昭和4年8月18日付け)