芥川龍之介

明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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「◎芥川龍之介氏劇薬自殺を遂ぐ/昨暁、滝野川の自宅で/遺書四通を残す・・・・・文壇の鬼才芥川龍之介氏は二十四日午前七時市外滝野川町田端四三五自邸寝室で劇薬『ベロナール』および『ヂエアール』等を多量に服用して苦悶を始めたのをふみ子夫人が?め直にかかりつけの下島医師を呼び迎え直ぐに手当てを加えたがその効なくそのまま絶命した。行年三十六、枕元にはふみ子夫人、書家小穴隆一氏親友菊池寛氏叔父竹内氏にあてた四通の遺書及び『ある旧友に送る手記』と題した原稿が残されてあった。?出により滝野川署から係官同家に出張検視うぃしたが自殺の原因は多年肺結核を病み最近強烈なる神経衰弱悩まされつづけ更に家庭的な憂苦もあって結果厭世自殺を計ったものと見られて居る。
◎二年前から冷静に心に決していた『死』/神経衰弱と家庭的憂苦とがいたましい原因に・・・・・芥川龍之介氏が死に誘惑されたのは、遺書にもある如く、二年前からのことらしいが、殊に最近強度の神経衰弱を病み同時に家庭的にも複雑な憂苦が伴い死を思うこと切であった。先頃文壇の知友宇野浩二氏が発狂して王子脳病院に入院した際善後策のため鎌倉に久米正雄氏を訪ねたが、その時も芥川氏は『自分も強度の神経衰弱よりして発狂するかもしれない』などと冗談に語ったが『いや、自分は発狂する前に死ぬ、死の平静に飛び込んでしまう』と厳粛な顔で語った。その後、冷静に死の準備をしていたが、今月の十六日頃、一夜妓棲に遊び、席に出た一芸者から彼女等の陰惨なる生活状態を聴いて、深く「生きるために生きる」人間の凄まじさを知り、一層厭世の心を強めたらしい。帰宅後遺書の別記『ある学友へ送る手記』を書いて、自分の死を決するに到った。心的遍歴や死への賛美せきばくたる人生観を書中に認めてその後は機会のみを待っていたが、二十三日になって、遂にこの夜を以て死期を定め其の日は一日中書斎にこもり氏が文壇生活の鉛筆として雑誌『改造』執筆の『四方の人』『文芸的なあまりに文芸的な』を書き、更に前記諸氏にあてた遺書を書き、夕食の卓ではふみ子夫人や三児とも美しく談笑した後、またも書斎にひきこもったのであった。
◎聖書を読みつつ最後の床へ/夫人も知らぬ臨終・・・・・食後再び書斎にひきこもった氏は聖書に読みふけっていたものの如く暁に近き午前一時頃前記の劇薬を飲み足音静かに階下の寝室にいり寝衣に着がえ床に着かんとした際、既に三児と共に熟睡していたふみ子夫人は、ふと目を覚まして声をかけると、氏は『いつもの睡眠薬を飲んだ』と低い声で答え床の上に横たわって尚も聖書を読んでいたが、やがて聖書を開きたるままばたりと枕頭に伏して眠りについた。これが芥川龍之介氏の従容たる終ねんであった。翌二十四日午前六時頃夫人が眼をさましてみると夫の呼吸が非常に切迫し顔色は鉛の如く青く沈んで容易ならぬ状態らしいので驚いて前記の下島医師を迎え直ちにカンフル注射その他の手当を加えたが既におよばず同七時遂に永眠したのであった。
◎弔問の客殺到す/涙も出ないふみ子夫人・・・・・芥川氏自殺の急報に接した文壇知友の驚愕は非常なもので一高時代の親友である久米正雄氏は即刻佐々木茂作、岡夫人とともに?倉から駆けつけ、先着の久保田万太郎氏、?家小穴隆一氏とともに一切の世話をやいた。夜に入っては菊池寛氏も宇都宮、、、駆けつけ、ぬかるみの中を雨にぬれながら芥川邸を訪れ、久米正雄氏と無言に握手をして涙をのんだ。、、、山本有三の諸氏が駆けつける。、、、新潮社、?文社の連中が雨をついて自動車を飛ばしてくる。静かな田端の同氏邸付近は折りからの夜雨につれて晩秋の如きさびしいあわただしさに閉ざされ、ふみ子夫人は悲しみのあまり涙さえ出ない有様だ。
◎夫人への遺書/活かす工夫は無用と・・・・・芥川氏が夫人にあてた遺書は原稿用紙一枚半ばかりへペンの走り書きで?めたものであったが、さすがに筆の跡も乱れ勝ちであった。
一、活かす工夫は絶対に無用
二、絶命後は小穴君に知らせよ。絶命前に知らせることは小穴君を苦しめること他に世人を騒がせるおそれがある
三、自殺と知れたらそれまで、自殺と知れなかったら暑さ中りの病死ととしてくれ
四、死後は下島先生と相談して然るべく取り計らへ、自殺と判った場合は菊池あての遺書は同君に渡せ、ふみ子あてのものはいづれにかかわらず開封して読み絶対に遺書の通りにすべし
五、小穴君には、、、
六、この遺書は??終了後直ちに?失すべし
◎目ざましい文壇生活/芥川氏の家庭と遍歴/残された幼い三児・・・・・芥川氏の文壇における一生は真に花やかなものであった。氏は明治二十五年三月京橋区に生まれた、一高を経て大正四年東大英文科を卒業したが在学中から既に久米正雄、菊池寛、松岡?氏等と共に『新思想』を経営し、その間『鼻』その他の傑作を発表して?も文名を知られた。かくて大学卒業後は横須賀の、、、英語教授として就職したがまもなく辞していよいよ著作に志し『羅生門』、、、と次々に著はして忽ち文壇に大なる位置を占めた。、、、等は氏の作品として?く世に知られたもので最近は改造や文芸春秋等にほとんど執筆を絶たず、また菊池寛氏と共同で小学生全集を監修し多忙なる文芸生活にいそしんでいた。家庭はふみ子夫人との間に女高師付属小学の一年生である長男比呂志次男多加志三男也寸志の三児がある。
◎ある女人とは夫人のこと/その死は人生観から/暗然と語る久米正雄氏・・・・・久米正雄氏は限り無き悲憂をたたえた暗い顔をして語った。「今の場合、私は何を言っていいかほとんどわからない。芥川は元来江戸っ児であり、骨董古書などにも深い趣味と理解があり博識は驚異すべきものがあった。そのためか、芥川の書くものは総べてしゅ玉の如く完成した芸術品であった。文士としては?作のほうなのだが??非常に働いて量においても数においても驚くほど多くを書いていた。これは私から言わせれば死を覚悟した芥川ができるだけ沢山の仕事を残しておきたいという芸術家らしい?からであると思う。死を決して死に到るまで冷静そのもので、その死は実に?じゃくの面影がある。芥川式に言えば彼は立派に入寂したので遺書を読み、彼を知っている私は彼の死は人生観上の死であると信じている。遺書の中にある彼と一緒に死のうとしたある女人とあるのは細君のことだと思う。細君をいたわる芥川の気持ちが遺書に出ているところからこう考えるのだが、その他には心あたりはない。」」

『東京朝日新聞』(昭和2年7月25日付け)