高野房太郎

明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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高野房太郎(明治30年4月撮影)








高野房太郎の幻の論稿、遂に発掘!



「◎労働運動最始の着手 高野房太郎・・・・・今や我国に於ても労働運動着手の期に入れり。余輩同志が組織せる労働組合期成会の如きも既に会員四千人に垂んとし、活版職工は活版工同志懇話会を結合して島田三郎君を其の会長とし、日鉄機関方諸子の組織せる矯正会も着々成績を収めて『鉄道世界』を発刊し、若しくは東京府下職人社会に於て最も鞏固なる団結を作りつつある彼の壁職組合の如きも欧米の労働組合に倣ひ方に消費組合を設立せんとするが如き、此の二三年来学士論客の間に労働問題の声喧しきと共に、労働者自身も自己の地位を認識し大に斯の問題に身を入るるに至りたるは、良とに喜ぶべきにあらずや。既に労働問題解釈の期に入れり。吾人同志が二三年前以来叫びたる労働組合は組織せられたり。次いて吾人が認めて最終に着手すべき労働運動の方法手段なりと信ずる所見を開陳せんとす。識者の一考を得ば幸なり。余は先づ最初に所信を表白し置くべし。即ち今日の労働運動に於て最始に着手すべきは、職工教育を盛んならしむるにあり。蓋し之に依らざれば眞正の労働問題を解釈する能はずと信ずるなり。然かも吾人は少しく職工教育の意味に於て世の識者と所見を異にす。普通に唱えらるるが如く幼年職工教育の意にあらずして、青年職工を教育すべしといふの意なり。即ち青年職工教育の意味なり。吾人が親しく職工と交り其の今日渠等に最も欠くる所を挙ぐれば、実に教育の欠乏に属す。欧米に比較して労働者の位置非常に脆弱にして、資本家と対峙する能はざる所以のものは、必竟我が労働者に教育なきが故のみ。看よ我国今日の賃金は果たして労働者の一家を維持するを得べきや。労働時間の如きは十時間乃至十二時間にして甚しきは十四五時に出づ。斯くの如くにして社会の待遇如何と顧れば、政治上、社交上何等の位置あることなく全く奴隷と境遇を同ふす。若し労働問題にして労働者の窮苦が直に之を惹き起す者とせば、寧ろ欧米諸国よりも我国に盛んに行はれ居るべき筈也。然るに欧米諸国にては労働問題は天地を震動せんばかりに盛大なるにも拘わらず、我国にありては未だ輿論の上に「叫びの声」として大なる反響なきは要するに労働者の自身が其の己れの境遇を認識する能はざる無智の致す所にあらずして何ぞ。故に曰く。労働者の権利を拡張し其の位置を高めんと欲せば、先づ職工自身の頭脳を開発するを先とすべしと。性急なる社会改良論者は欧米の事実に拘泥し、直に今日の労働者を以て資本家に当り戦争を開くべしと主唱する者あるが如しと雖も、斯くの如きは徒らに事を好む軽躁者流の所為にして甚だ吾人の興する能はざる所なり。一歩を假して資本家に当るを可なりとするも、今日の如く思慮を欠き分別少なき労働者を以て為さんば資本家に当たるを得んや。況んや未だ団結鞏固ならず物質の準備少ないきに於てをや。故に眞個に我国労働者の前途を憂ひ其の位置を高めんことを欲せば、労働運動最始の着手として先づ職工其れ自身の教育を第一とし、静かに団結を鞏固ならしむると共に智識を注入するを勝れりと為す。若し一個の私情を挟み好奇に駆られ今日の労働者を率ひて資本家を敵視するが如き者あらば、寧ろ労働者の前途を毒する者と言ふべきなり。然らば職工教育は即ち之を如何すべきか。今日の寄席を改良して職工教育の一助とする可なり。労働者に同情ある人に望みて幻燈会を起こし、社会改良家或は工業発明家の履歴を説明するも亦た不可なし。若し方法を選べば種々の方策あるべし。然れども余輩は労働者改良を主眼として此処に職工教育奨励会を設立せんことを主張せんとす。而して其の組織は先づ世の学者識者と資本家とに之に賛同せんことを望まんとす。即ち資本家より寄付を得、労働者に同情ある学者に托して講演の労を取らしめんことを欲す。而して之に賛助せる資本家は、其職工を勧誘して出来得べきだけ其の講演を聴かしめ即ち学者と資本家と労働者と三位一体となり和気藹々の間に職工の品性智識を研磨するの方法に撚るを可なりと信ず。組織の仔細は之を後日に譲ると雖も、今日吾人の抱ける成案を以てせば職工教育奨励会本部を東京に置き地方に支部を設け、講演は之を巡回にせんことを欲す。斯くて会員多数と為れば、通信講義録を発刊して計費は之に依りて得るの方法を取るべきなり。更に教育当局者に望む所あり。職工教育の為に全国各地の教育会場を無料に貸さんことを嘱望す。而して文部当局者には、職工教育奨励会を実業補習学校と認め国庫の補助を仰がんことを欲す。職工は今世紀に於ては実に国家の基礎也。然かも今日の如く職工社会の無知蒙昧なるは豈に国家の耻辱にあらずとせんや。嗚呼職工教育の奨励は一に労働問題の範囲のみに止らざるなり。」

『天地人』(第十九号 明治32年7月2日発行)

発掘日 2012年5月23日










○高野房太郎君を憶ふ

天涯茫々生

労働運動の卒先者として、兼ねて鉄工組合を創立し、消費組合を創設したる労働社会の明星、高野房太郎君が、清国山東省に逝けるは、既に三か月の前に経過す。数日前、遺骨東京に到着し、明二十六日午前九時を以て、駒込吉祥寺に其の埋骨式行わると聞き、感慨の湧起するを禁じる能はず。余江湖に放浪すること爰に十幾年、一枝の筆に依りて、僅に陋巷に生を送る。然かも時に平らかならざるもの者あり。地方に出で、山間に隠くるること今に数回、想起す、今より六年前、余、毎日新聞社に在り、「日本之下層社会」を編し了りて、健康意の如くならず、避暑を名として、突然東京を出で、加州金沢を経て、郷里小戸の浦辺に還る。而して遂に新聞記者を廃して、農に帰らんと決するなり。当時最も其の不可を称ひたるは君にして、翌年君の日本を去る急忙の際に於いても、尚且余を忘れず、桑田博士と相謀りて、農商務省の工場調査に関係せしめたり。今日君が東京に帰りて、労働者の研究に従事するもの、先輩には佐久間貞一、島田三郎二氏の援助ありしと雖、亦君が常に余を慫慂し、激励したるもの與りて力多きを認めずんばあらず。嗚呼余は君を忘るること能はざるなり。豈啻に私情に於いて君が死を惜しむのみならんや。近時、社会問題を議する者多く、竟に資本を公有にすべしと称するカールマルクスの学派を汲める社会主義の徒を出だすに至れり。社会主義者の出づるも可也。其の所説、如何に激烈なりと言うも、亦一種の学説としては、社会主義に與せずと雖、敢えて之を排斥するの狭量ならざらんことを欲す。然かも其の唱える者の行動如何と見れば、徒らに其の説を奇激にして、労働者を思うの親切少なきは、余輩の甚だ與みせざる所なり。今や年一年、社会主義を喜ぶ者増加す。此時に於いて、社会主義の学説と其の運動方法を厭へる君の如き士の逝けるは、実に労働者の不幸にして、亦日本国の不幸なりと謂ふべし。







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明治30年



「◎鉄工組合創立一周年祭・・・・・日本橋呉服町における労働組合期成会の鉄工組合は今回創立一周年に相当するをもって本日午前十時より上野公園竹の台において記念祭を執行する由。祭典の式は午後一時より奏楽と共に参会者は一同式場に参列し委員長の挨拶会員の祝辞来賓の祝辞に次で島田三郎、松村介石、片山潜、高野房太郎氏等の演説及び有馬万治氏の景物滑稽演説余興には大神楽等ありと。」

『東京朝日新聞』(明治30年1月8日付け)






「◎横浜に在るマニラ人・・・・・ジャパン、アドヴァタイザー新聞は横浜に在るマニラ職工の事について記して曰く。先月二十一日一人のマニラ職工横浜に到着したり。然れども自国の言語の外絶えて知る所なく万事に不便なるを以て本牧に在る自国の一青年と同宿することとせり。この青年の名をヴィラ、リアルと呼び五カ国の語に通ずるものなり。然るに其の時より一人の探偵始終彼らの出入に注目し居りしが、今月十日の朝に至り両人は居留地第十三番館の職工雇主と相談する所あらんと欲し同館に赴き青年は一時間の後職工を残して其の家を出でしに直ちにスペイン領事のために捕縛されたり。此の時スペイン領事は米人テルテップ及び日本通訳官と外に三人の日本人(30ポンドを与えて)を使用したりと云う。かくて今月十六日に至りマニラ職工はスペイン領事に登記を乞はんと欲して雇主に其の許しを得翌十七日会社の一フランス人共に領事館に赴きしに領事は彼に向いて横浜に在るマニラ人の事を厳しく尋問せり。然るに職工は一語も答えざりしを以て領事は函中よりピストルを出だし之に迫りて曰く。汝は此の器の何たるを知るかと。職工は之に答えて然り是は以て鳴かざる鳥を鳴かしむるに足らんといいつつ急に仕込杖中の剣を抜き放ちて彼に示し、余は自己を防御するために此の剣を有せり。余の友たる此の紳士は之が証人たらんと。ここにおいて領事は彼に此の家を去り午後二時再び来らんを求めたるが、彼は午後六時に至りて本牧より水夫の寄留所に移され九時に至りてスペイン領事館日本書記来たりて爾後決して本牧に帰る可からず且つ食事は一切テルテップの宅において為すべしと命令しごうも職工の請を容るることなし。且つこの日彼が南京町を通行する際市街薄暗き所に到りしに二人の日本人出で来り汝はマニラ人なるかと詰問し彼がナイフを抜き放ちてナニーと一喝するや一斉に逃げ去りたり云々とあり。」

『東京朝日新聞』(明治30年9月27日付け)








明治31年



「◎活版職工の同盟罷工・・・・・深川区東大工町なる東京印刷株式会社の職工は男女合計三百五十余名にて其の中壮年者の重立たる活版職工百八名が一昨九日突然同盟罷工に及び同会社へ押し寄せて破壊せんと企てたるを早くも会社にて聞き知り深川署へ急報して保護を乞い数名の警官出張して非常線を張りたれば同盟連は意を果たさず挙って退社届をなして目下尚紛議中なるが其の原因を聞くに職工は昨年十二月中物価騰貴を口実として増給の儀を迫り工場監督斎藤某へ願書を差し出せし処追って取り調べの上成績により多少増給すべしといいわたし其の後給料日となるや僅かの職工へ増給せしのみにて一同の不平俄かに起こり何んとなう穏やかならざりしが本年三月に至りて職工中の頭株なる本所区入江町十九番地吉岡秀之、同区徳右衛門町二十四番地中村八十吉、同区北新掘町六十九番地中村広次、同区林町三丁目五十六番地木村音次郎、深川区西六間堀町三十五番地安田徳次郎、同区伊勢崎町二十九番地寺島栄之助、浅草区福井町一丁目二十四番地大崎彦造等の七名は主唱者となり活版工同志懇話会というを設立し忽ち同会社にて百八名、他工場のものも賛成者多く終に加盟者百三十四余名に及びたれば其の第一回東両国の待合武蔵屋に開き米国文学博士片山潜、労働期成会幹事高野房太郎の両者も其の趣意を賛成して一場の演説をなし本月三日又も第二回を同家に催し席上八名の幹事を選挙せしに宮城富次郎、吉田平吉外六名当選し更に同五日は評議員八名を撰ぶはずなりし所同五日の夜会社にては本会発起人たる吉岡、中村二名、安田、木村及び幹事宮城、吉田等の七名を既に解雇したる旨通知し来り同夜前記西六間堀町の安田方に集会し居たる七名は大いに驚き先ず会員には知らせずして自余の幹事と七名の解雇者都は其の夜直ちに印刷会社長星野氏及び工場監督斎藤等に面会し解雇の理由を質さんとせしも斎藤は不在なりしに是非なく副社長多富久氏に談判せしも此の事については工場監督の権限にあれば我等は更に与からず、しかし明日出社のうえ何とか穏便の取り計らいをなさんと慰諭されて一旦退き又星野氏を訪ひしに来客ありて面会せずそのまま安田方へ引き返して種々の評議を尽くしけり。」

『東京朝日新聞』(明治31年4月11日付け)




◎随感録・高野房太郎・・・・・○今の世の中は団結の時代なり。学者には学会あり。商人には倶楽部あり。政治家には政党あり。資本家には会社あり。彼等がかくの如く結ぶは何がためか。詮する所はその各自の利益を進めんがためにあらずや。単り怪しむ。労働者間においては団結の風盛んに行なわれず。時に団体の組織せらるる者あるも微々として振るわざるは如何。労働者間においては他の階級者の如くその各自の利益を図るの必要なきによるか。別言すれば、労働者の利益は労働者自身にてその上進を図らずとも労働者を使役する人々は労働者のために尽くす所あるがためか。然り日本の資本家はその被雇者を慈しみ彼等を観るあたかも慈母の愛子におけるが如くなるか。吾人はその誠に斯くの如くならんことを望む。、、、」

『労働世界』(明治31年6月1日付け)





◎東京たより・高野房太郎・・・・・労働世界記者足下、共働店の利益は兼ねて足下の御唱道により極めて莫大なるものなることは確信致し居り候か事実は更に幾層の効果を発揮致し候。頃日鉄工組合第七支部員村松君が小生に寄せられたる事実は是を証明して余りあるものに候故未だ共働店の設立なき各支部員諸君の御参考までに貴紙をうづめたく候。右事実の要点とは、
(1)同支部における共働店発達の有様に候、去る三月十五日三名にて四円五十銭を醵出し石鹸及び巻き煙草を売り捌きたりしに同月下旬には株金は増して二十八円と相成り四月中には四十円六月下旬には惣金四十八円五拾銭払い込み相成り候由にて其の売り捌き候品物も前記二口の外シャツ、襦袢、足袋、草履及び紙等にて株主の総数は三十二名に達したることと、次は(2)其の利益の非常なることにて候。前三ヶ月間の決算によれば純益二十七円十銭にて是を四十八円の株金に対するときは三ヶ月間に五割五分強即ち六ヶ月間には元金を取り返すことに相成り申候。さりながら共働店の仕組みは決して株主ばかり儲くべき者にこれ無く、その利益は一体に及ばねば不相成り候故同支部にては純益の分配案を定めて五割を物品購買者に、三割を、株主に、二割を役員に賞与として配当致し候結果は(3)品物の買い手は一円に四銭四厘弱の配当を受け候故に拾?円の買い物をなせし人は三ヶ月後には同店の株を一株所有することを得られ候。(4)株主は五十銭株に対して八銭五厘の配当をうけ候。即ち年六割八分の割りにて日本国中相尋ね候ともかようななう高利を得らるる事業は無之候。(5)役員の配当は平均三十銭の割りに相成り申候。是は誠に些少の額にてとても其の労苦の万分の一にたも当たり不申候得共現下の情勢これ等の献身者なくては事業挙がらざる次第なれば、この配当も先ず至当かとも存候。右の五点は共働店の事実的成効を証明致候者にてこの制度を以って将来実業界の革命案と見なし候も今は机上の空論たる恐れは無之候故小生は組合の諸子が大いにこの事に尽力せられんことを希望致し候。ただ前五点の外に小生の望み候所は利益分配前の準備金を引き去る事にて是を以って後来逆運に遭会するときの用意に致し候は必要に可有之又組合事業費として幾分の金額を積み立て候事も組合事業としての共働店には至当の事と存候。?々不備。」

『労働世界』(明治31年8月1日付け)





◎東北めぐり・・・・・のん気なるかな期成会の連中、暑気九十度以上の炎天を恐ろしとも思わず、住みなれし都の空を跡にして、はるばる奥羽地方遊説の途につきしはさてもさても御苦労千万といわざるべからず。東京及び其の近在の人々はこの一行を目して仕合せ者となし、この暑空に東北旅行とは紳士豪商の避暑旅行も唯ならずとなし玉ふならんかなかなか以って避暑のひの字も無く熱天の下に汽車の客室に閉じ込められ風通しよろしきかと思えば砂風遠慮なく身辺に群がり来り顔、手、足、凡て肉体の現はるる所、砂ならざるはなく、黒煙ならざるはなしという有様。気楽な所は一点たにもなし。まして暑気の点に至りては東京と大差なき次第にて唯朝夕少しく冷気を覚ゆるのみ。東京の諸君、夢にも一行が気楽旅行を試みつつありと思ひ玉ふなよ。さても一行が東京を旅立ちしは二十三日午後三時。第一回の演説会は同夜午後七時を以って大宮末吉座に開かれぬ。一行の遊動隊たる小笠原賢太郎君先ず開会の辞を述べ、高橋定吉君、片山潜君、高野房太郎君各自其の胸襟を開いて大宮工場の職工に忠告し警告し勧告せり。解散せるは午後十時半。同夜大宮宿店においての経験はこの旅行の首途に対する第一の失策なりき。今更思い出すも腹立たしきは隣家の達磨とやら足なしとやらいう動物なりき。夜を徹してのすっちゃん騒ぎ、遂に我々一行をして快く眠りを貪ることを得せしめざりき。眠り既に足らず、亦何ぞ眼の赤きを怪しまんやという理屈にて翌日一行の顔色何となく浮き立たざりしは憐れというも愚かなりけり。能く寝たり又は寝ざりしに関らず、時間が来れば出発せざるべからず。旅行の悲しさはかくてこそ思い知らる。睡眠一拭汽笛の声に送られて大宮を出でしは二十四日午前六時。宇都宮、黒磯、白河等の各駅を経て鉄工組合第二十三支部の所在地なる福島県福島町に着きしは午後四時半。さすがわ福島県庁の所在地とて市中の様子も何となく奥ゆかしく見ゆ。第二十三支部役員諸君の熱心なる歓迎の下に旅店藤金に送られ昨夜の経験談は今は一場の笑話として語らうことを得るらしき思われたりき。同所万歳館は我々一行の演説会場として館前球燈の光り輝き市中幾多の電燈に対して?色なし。会の開きたるは夜八時一行の弁士皆雄快の弁を弄して聴衆の感動を促し、大拍手大喝采のうちに会を閉じしは午後十時。演説会終わりて第二十三支部役員諸君の招待に応じて中常楼に催ふせる懇親会に列す。列席する人々は(福島)野尻満蔵、吉野健蔵、村上茂吉、佐藤運四郎、鈴木三?、鷹股新蔵、石川尋平、山崎亀太郎、(仙台)板垣国吉、佐瀬徳次、平田菊三郎、中澤三吉、(黒磯)菊地佐吉、松本由三郎。」

『労働世界』(明治31年8月1日付け)





◎東北めぐり(二)高野房太郎・・・・・七月二十五日暁起き、鉄工組合第二十三支部の有志諸氏に送られ旅店藤金を出で福島停車場に至り、九時発の列車に搭じて一ノ関に向かう。午後零時半我々一行を乗せたる列車は仙台停車場に着す。一ノ関在勤汽関手会員安居彦太郎君ここに我々の来たるを待つあり。相便乗して一ノ関に向かう。車上盛岡及び青森において我々一行を待つの準備既に整えるを聞く。花巻停車場において一ノ関会員坂英一郎君の更に我々を迎ふるに会し、一行六名一ノ関停車場に入りしは午後三時半、ここには矯正会一ノ関支部員十数氏の出迎はるるあり。導かれて旅店石橋に入る。しばらくにして中野良吉、柿沼茂三郎両機関手の来訪せらるるありて、ここに安居、坂両氏を合しかの罷工の導火線たりし解雇機関手八名中の四氏と会談することを得たり。話頭は端なく罷工当時の状況に及び、檄文印刷の苦心、秘密会議、警官の干渉、列車の喰い止め、足立運輸課長排斥運動等言々句々我々一行の耳を新たならしめたり。特にこれ等の被解雇諸氏が委員会の決議を重しとなし新規採用という名目の下に復職を甘んじたるがためその十余年来辛酸の結果に成れる数百円は積立金を煙散霧消せしめしが如きは大いに我々の同情を高めたりき。演説会はこの夜七時より岩井座において開けり。聞くか如くんばこの地方の常として集会其の他人を集むる必要あるときはその開会に先立ちて市中に触れ太鼓を廻して公衆の注意を惹き起すとの事にて我が演説会開会前一時間矯正会員の諸氏は親しくこの太鼓廻しの労を採られたりければ聴衆の来たり会するもの無慮五百余名。演説会終りて矯正会員諸君の接待に応じて同会支部事務所開館式に列す。席上有志会員諸氏の催しに係わる十数番の剣舞あり。皆東北健児独特の技、我々一行をして不思快絶壮絶を呼ばしめたり。午前一時事務所を辞して旅店に帰る。二十六日早朝一行中の小笠原君は先発隊として盛岡に向かい他の三名は午後一時の汽車にて発す。午後四時盛岡に着す。ここには矯正会員黒川延之助君の我々を出迎はるるあり。導かれて旅店陸奥館に入る。矯正会員柴崎長五郎君唐澤儀十郎君亦来たりて、我々一行の労を慰めらる。午後七時より兼ねて矯正会諸氏の尽力によりて借り受けたる杜陵館において演説会を開く。同会員諸氏各々部署を分かちて会場整理の任を採らる。聴衆の集まる者七百余名満場立錐の地なし。我々一行の弁士は聴衆の熱心なる拍手喝采裡に各演説を終り閉会せるは午後十時半。右演説会終りて矯正会員諸氏は陸奥館楼上に我々一行のために慰労の宴を開かる。同会支部の代表として席に列なられたるは唐澤儀十郎君、黒川礒之助君、支部長中村良之助君外一名。この夜一行中の小笠原君は夜行列車にて函館に向かい他は翌二十七日午前八時の汽車にて青森に向かう。午後四時同所着。矯正会青森支部長木村孝蔵、福田平三及び陸奥日報社員小宮山留三郎君の諸氏に導かれて旅店かきやに入る。午後八時より中村座において演説会を開く。この夜同地においては招魂蔡の執行せられたるに関らず聴衆無慮一千名。小宮山留三郎君先ず開会の辞を述べ続いて一行の弁士登壇大いに組合設立の必要を説き聴衆の猛省を促せり。演説会開会中鉄道作業青森出張所在勤佐野峯太郎及び旧期成会員若林重太郎の両君と会談して鉄工組合支部設立の協議をなせり。矯正会の有志諸君に送られて一行の旅店に帰りしは午後十二時。翌二十八日前六時青森を発して尻内に向かう。前九時同所着。矯正会員菊地山三郎君の家に到りて矯正会員諸氏の来たり会するを待つ。午後零時半会員の集まるもの三十余名。高野、片山両氏は交々今回遊説の主意を説き進んで矯正会員諸氏に対する希望を述べらる。さすがに彼の罷工の主謀者の在住せし所とて会員諸氏の意気軒昂たるものありしは一行の大いに満足せる所なりき。右演説会を終りて直ちに二時発の汽車にとうじ盛岡に着せるは午後五時半。同所鉄工場在勤川村藤次郎君其の他五六の諸氏に導かれて再び陸奥館に投ず。鈴木国蔵、荒田増吉の両君来訪、盛岡工場在勤鉄工五十六名を以って一支部設立の議を決せる由を告げらる。よって同夜右組合員及び木工場有志の諸氏を集めて談話会を開きて諸氏の奮起を促せり。右談話会終りて鈴木、荒田両君は我々一行のために慰労の宴を開かれり、盛岡詰機手甲斐道之助君、機関手取締役柴崎長五郎君、機関手唐澤儀十郎君、同中村良之助君、木工小頭原田某君等支部設立について間接の幇助を與へられたる諸氏列席せられ前二時解散せり。この解散と同時に小笠原君函館より帰成同地の好望を説かる。不幸二十九日仙台にて開会の先約あるを以って赴函の事を果たすことを得ず。その旨在函の有志者に申し送ることとせり。」

『労働世界』(明治31年8月15日付け)







明治32年
明治33年
明治34年
明治35年




明治36年
明治37年
明治38年
明治39年
明治40年



「◎外字新聞職工の同盟罷工・・・・・横浜市山下町三四にて発行するジャパン・アドバタイザーは編集人英人イルネスト、ジョン、ハリブ同発行人アーサー、メー、ナップにて既に五千百九十八号を重ねたる十ページ大の新聞なるが、五日の夜突然職工が同盟罷工を為すに至りし故六日は四半ページ裏白の新聞を発行したり。去る四日同市ドイツ商人の機関紙英字新聞ジャパンヘラルドの職工が新聞及び諸種印刷物に就き既定の勤務時間経過後の特別労銀を渡さぬとて同盟罷工を決行したればアドバタイザーも是と同様の原因なるべしと。」

『万朝報』(明治40年12月7日付け)




明治41年
明治42年
明治43年
明治44年
明治45年



































































「◎ゴンパース氏終に逝く/昨朝テキサス州で・・・・・【サン・アントニヲ(テキサス州)国際十三日発】米国労働総連合会長サミュエル・ゴンパース氏は本日午前四時十五分遂に当地に於いて死亡した。
◎日本の運動にも刺激を与えた/一職工から身を起こして一生を組合の為に捧ぐ・・・・・ゴンパース氏が日本の労働運動を刺戟した挿話として伝わっているものがある。それはいま大原社会問題研究所長の高野岩三郎博士実兄高野房太郎氏が米国から帰朝の際ゴンパース氏は高野氏と握手して『日本でもシッカリ労働運動をしてもらいたい』と懇ろに労働運動のために説いたもので高野氏帰朝後に起こった労働運動が我が国で殆ど最初に起こった明治三十年前後の労働運動であった。大正四五年頃にも鈴木文治氏はゴンパース氏の為に友誼的代表的に労働大会に出席し多少の刺戟を与えた。氏は非常に勢力家でロンドンに生まれ葉巻職工として身を起こして千八百八十一年に米国労働総同盟会長になってから今年まで僅かに一回一八九四年に落選しただけで会長を続けて来ている。それに日本では深く知られていないがゴンパース氏は自分は勿論娘さんも労働運動のために尽くしその娘さんはいまクラークユニオンの幹事として活動している。ゴンパース氏の死によって米国労働議員の空気に多少の新鮮味が現れるであろうことは想像出来るがしかしその為に俄かにゴンパース氏が終世の敵にした社会主義思想が普及することはあるまい。」

『東京朝日新聞』(大正13年12月14日付け)