高浜虚子

明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
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「◎向島百花園より中継の観月短歌、俳句会・・・・・明月を観そしてそも夜を歌や俳句によってその美しさ、清々しさを唱えようというのがこの夜のAkの催し観月短歌会、観月俳句会の放送である。
○当夜はこの観月会に参集する、歌人俳人は日没前から向島百花園に集まる。この花園には震災前までは都会の粋人墨客が、花に月に、雨に、雪に、四季その折々の赴きを賞美すべく隅田川を越えては足を運んだものである。この百花乱れ咲く、せうせうたる初秋の風の音を聞き、草間にすだく虫の音をマイクロフォンを通して聞きながら、江戸郊外の昔をしのびながら、そのしのぶにふさわしい観月短歌会、俳句会はこの御成座敷その他で開催されるのである。
○午後五時ころまでに集合した歌人俳人は午後七時三十分までに数首か、幾句かの作を投書する。そして選者はその句を選ぶのである。七時三十分から約三十分は短歌の披講と、その講評。その後の三十分は俳句の披講と講評で、それをそのまま放送しようというのがこの夜のAkの催しである。【写真は高浜氏と与謝野女史】」


『東京朝日新聞』(昭和7年9月15日付け)
























「◎パリまで乗り出す/俳人虚子さん、本社記者の訪問で遂に決心・・・・・俳人高浜虚子氏、日本中の句作行脚に倦きて最近洋行してみようかなと考えていた。作曲家の令息池内友次郎氏が、今三度目の留学でパリにいるが、もうじき帰って来る。というので、それまでにあちらの見物を済ませ、一緒に帰ってこようとの腹案がある。それにもう年も六十三歳になった。このへんで洋行せねば、一生の機会を4失うわけである。洋服も着慣れぬし、外国語はさっぱり駄目だし、よそうかな、行こうかな、」と短冊片手に小首をかしげながらの思案であった。この思案を聞いた、記者は虚子を訪ねて見た。二日、ホトトギス社主宰の武蔵野探?の句会が多摩川べり上野毛の田男別荘に開かれていた。「武蔵野の野末のけむりー」だの「藪柑子に日向ぼこー」がどうしたのという選句の声の中から虚子氏を引っ張りだして訊いて見る、「フランスへ行くんですってね」というと、あの端然たる虚子先生が「へえ?」と声をのみ、眼を丸くして驚くのである。「まだ、思案だけですぜ、然も三分通りの思案でさあ、誰がそう言いました?」「誰だか知らんが、とにかくお出になるんだそうです」と決めてかかると「驚いたな、一寸待ってください」と引っ込んだ。今度は虚子氏と共に二人の男が現れた。日本郵船箱根丸の機関長上ノ畑楠窓宗匠と新潟医大教授高野素十宗匠である。「それ見なさい。先生、新聞社の人まで来たんですよ。うん、とおっしゃい。」「此処で洋行しなきゃ行く時がありません。いい避?旅行だ」などと両方から盛んに鼓舞激励している。「でも旅券がー」と渋る虚子先生の思案は此処で三分から七分通りまで飛躍したらしい。「旅券は?矢君が明日にも下りるといってます。」?矢君とは警視庁官房主事矢野兼三君のことである。「ようやく行くことにしよう」七分の思案が十分の決心となった。楠窓、素十両宗匠が喜んだのは勿論だ。「しめしめ」と話は決まってしまった。船は楠窓宗匠の乗ってる箱根丸と決まった。二十一日神戸出帆、マルセイユに着いて、同船が又マルセイユを出る迄一か月余りある。この間パリの令息を訪問しロンドンの日本人クラブ俳句会へ顔を出す、というスケジュール迄決まった。「和服で押し通すよ。末の娘の章子を連れて行ってやろう。章子は今日光へスキーに行っとるが驚くだろうな。」と虚子先生は眼を細めて笑う。此処で即吟に二句あり。「この高木菊いただきも来るとかや」「芝の雪踏めばなくなるところあり」」

『東京朝日新聞』(昭和11年2月3日付け)






















「◎俳句世界行脚へ・・・虚子氏出発・・・・・【横浜電話】短冊片手にパリからアメリカ迄のさうといふ俳人高浜虚子氏は令嬢?子さん(十八)をガイドともリーダーとも頼み十六日午後三時横浜から箱根丸に乗船「俳句世界行脚」に出発した。出発に際して手渡した船出の句
古綿衣着のみ着のまま鹿島立」


『東京朝日新聞』(昭和11年2月17日付け)




















「◎高浜虚子氏(俳人)・・・・・俳人高浜虚子(本名清)氏は一日夜、脳出血を起こし鎌倉市材木座一二七八の自宅で療養していたが、八日午後四時死去、八十五歳。葬儀は、門下生の電電公社総裁大橋八郎氏が葬儀委員長となり九日午後六時から自宅で通夜、十一日午後二時から鎌倉市扇ケ谷寿福寺に密葬、十七日午後一時から二時まで東京青山葬儀所で本葬のあと二時から三時まで告別式を行う。(鎌倉発)」


『東京朝日新聞』(昭和34年4月9日付け)