国木田独歩

明治のころ、本気でこの国を「働く者の楽園」に
変えようとした靴職人がいた!
クリック↑(トップページ)











「◎自然派の驍将国木田独歩逝く・・・・・肺を病んで本年二月より相州茅ヶ崎南湖院にて治療中なりし国木田哲夫(独歩)氏が一昨二十三日午後八時四十分死去したることは昨日の紙上に報ぜる処なるが、氏と浅からぬ関係を有せる我が社は直ちに岡村小島の二社員を茅ヶ崎に特派して其の遺族を慰問せしめ併せて死去当時の模様を詳報せしめたり。
▲独歩氏の略歴/変転三十八年の生涯・・・・・国木田独歩氏、名は哲夫、明治四年八月を以て下総国銚子に生る。氏の父は長州萩の藩士なりしが長く銚子の裁判所長たりしを以て氏は此処に生まれたるなり。明治二十三年東京専門学校政治科に入学したりしが卒業するに至らずして学校を退学したり。土肥春曙、金子筑水、中桐確太郎氏等と平生相交遊せり。氏は十七歳の頃大分県佐伯町に赴き此処に私塾を建てて英語、数学の教授を担当し人望篤かりき。爾来矢野文雄氏に知らるるに至れり。氏が佐伯町の風光明媚なるを賞し湖畔詩人ウオルヅウオルズ心読したるも実にこの時代なりき。明治二十七年日清戦争の当時国民新聞社に入社し特派員となりて戦地に赴きたるが、その観戦記は実に当時の読者をして血躍り胸湧くの感を与えしめたりといふ。氏の国民新聞社にありしは二十七、八、九に亘りて三年間に及びしが松方内閣の成立するに至って徳富蘇峰氏が平生の主張たりし平民主義を??の如くに捨てて勅任参事官の椅子を占めついに『国民の友』をも廃刊するに至りたり。当時『国民の友』は氏の令弟収二郎氏が編集主任となり独歩氏は国民新聞社員たりしと雖も多くは『国民の友』に関係したるを以てその立脚地を失いたると同時に蘇峰氏の変節にあきたらず思い断然同社を退社したり。これより以後の独歩氏は逆境に立ち殆ど放浪生活を送れり。氏は亦報知新聞社に入りて外務省方面を担当したりしが此処にも長く居らずして退社せり。その後東京市役所内に於いて故星亨氏の全盛時代に今の東京市助役なる山崎林太郎氏と共に民声新聞を興し氏は編集主任となりて新聞の体裁などに細心の注意を払い近年各新聞雑誌に掲載するカットの如きも氏は既にこの時代より掲載したりしという。その後民声新聞の廃刊するや失意の念遣る方なく明治三十五年以後は多く相州鎌倉に?居し創作に筆を遣りき。後に近時画報社により発行したる『独歩集』中にある創作は殆ど鎌倉時代になりたるものなり。明治三十七年の春矢野文雄氏の近時画報社を興すや氏を鎌倉より招聘して同社の編集主任となし。近事画報(日露戦争当時は戦時画報)婦人画報、新古文林、少年少女画報の諸雑誌を発行し一時社運隆盛なりしが事業幾何もなくして蹉跌し遂に解散の悲運を見るに至りしが氏は単独に独歩社を創設し近事画報社の事業を引き継ぎて諸雑誌を発行したりしがこれも幾何ならずして解散の運命に陥り四十年七月同社一切の事業は挙げて東京社に引き渡せり。その後同氏は西大久保に寓居し一意専心創作に従事したり。その作する所多からずと雖も悉く氏の血と肉とよりなりたるもの皆他人の模倣を許さざるものあり。本年二月病篤くして相州茅ヶ崎南湖院に入院したるが惜しいかな、一昨夜八時四十分?然として白玉?中の人と化せり。行年三十八歳。『武蔵野』『独歩集』『運命』『?』の著あり。
▲死んだ時の模様・・・・・客月下旬まで喀血なかりし独歩氏は本月二日夜八時頃突然喀血あり、其の量コップに二杯にも余れり。氏は常に『己れは喀血すればモウ駄目だ』と云い居たれば此の日は驚きたるものの如く南湖院長高橋氏は来訪者の面会を謝絶する事を勧めたり。かくして病衰したる体は愈々衰弱して、今まで午後ならでは発熱せざりしものも之れよりは午前中に発熱する様になり、越えて十三日実弟修二氏(神戸新聞主筆)が来訪するや兄弟の情に厚き氏は修二氏の手を堅く握りて殆ど歓喜に堪えざる模様なりしが此の急激なる情の発作が病体に何らかの影響を及ぼしたるものの如く翌十四日再び喀血し、其れより後は絶えず血潮を混じたる喀啖をなし来たりしが十八日よりは死の目前に迫り来たれるを覚知したるものの如く、同日来訪せし牧師植村正久氏より死に就いて種々教訓を乞い夜に入りて「予今や悟りを開けり。死は敢えて望む所にあらずと雖も亦怖るる所にあらず。而して生は固より喜ぶべし。更に懐ふに今の病苦は彼岸に達するの努めたらずとせんや」と枕頭に坐したる実弟修二、真山青果、小杉朱?等の諸氏憮然として暗涙に咽び又一語を発するものなかりしと。かく自覚したる氏は之より病苦頗る軽くなり、看護の人々も氏が苦悶の様を見るを免れ心安んじたるが、二十一日またまた少量の喀血あり。然るに一日を経たる一昨二十三日午後夫人治子一人にて看護し居りしが氏は非常なる果物好きにて中にも水密桃を好むこと一と方ならず然れども医師より固形体の食物を禁じられ居ればそれらの物は一切口にせずありしも同日彩雲閣より送り越したる水密桃二個を喜んで食し尚来る二十八日頃には刺身位は食うても差し支えなしとの医師の言もあれば氏は非常に之を楽しみになし居たり。然るに同八時五十分氏は「アイスクリームが食いたい」と云えるにぞ看護婦に命じて作らしおる間に最後の喀血は来たれり。この時氏は「ああ息が窒ったようだ」と云えり。これ氏が最後の一言にして、我が文豪国木田独歩氏は斯くの如く最と安らかに永への眠りに就けり。」

『読売新聞』(明治41年6月25日付け)